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2017年10月18日水曜日

「この時代の日本に生きて―昭和10年代生まれ(70-80歳)の場合」by Nobuki Hori堀伸樹著

「この時代の日本に生きて―昭和10年代生まれ(70-80歳)の場合」

堀伸樹

―戦争末期、復興期、高度成長時代、安定成長時代、長期低迷期、我々世代は20世紀から21世紀にわたり、昭和と平成にかけて、かなりの経験をした、戦後復興で活躍した昭和一けた世代と日本人の新しい局面を開いた団塊の世代の間で我々地味な世代はどうだったか? 比較的幸せだったか(個人にもよるだろう)、我々世代はよく働いたか、日本人の国民性―同質的、経済水準や教育水準・民度は高い、島国根性、優れたリーダーは現れない、多様な議論やコミュニケーションが少ない、第3の開国(明治維新、戦後の復興に次ぐ)に向けていかに閉鎖性を打破するか、グローバリゼーションの進展において主体的にどうすべきか、2020年代以降のアジアや世界の発展にいかに貢献するか―

① 我々は、昭和10年代生まれ(1935-45年)であり、昭和一けた世代(80代)と戦争直後の「団塊の世代(昭和22-25年:1947―1950生まれ、いまや65歳以上)」の中間にある。その後は50代(1955-65年生まれ)、40代(1965-75年生れ)の時代となる。それぞれの世代は、日本のこれまでの発展に対していかなる感慨を持っているか

② 1939年生まれの私の場合、戦争の思い出は殆どないが、終戦の1945年4月に兵庫県芦屋市立山手小学校に入学し、終戦直前の8月5日夜に阪神地方に空襲があり、母に手を引かれて近くの親戚の防空壕に避難したかすかな記憶がある。借家の50メートル先までの地区は焼夷弾で焼かれた。終戦の日(8月15日)の記憶はない。また、戦前以来の軍事教育の記憶もない

③ 日本の殆どの都市は、連合軍の爆撃によって破壊され、惨憺たる状態だった。内外の300万人以上の日本人が死亡したと見られる。そこから日本の戦後の復興が始まった

④ 戦争が終わって平和となり、その直後、昭和22年から25年頃までベビーブームとなり、いわゆる「団塊の世代」が登場した。我々の同期(同じ年に生まれた人の数)は約200万人だが、彼らは250万人だった(現在20代の世代では120万人,今では100万人,今後どんどん減っていくだろう。主要な出産年齢の20歳―40才過ぎの女性の数が次第に減っていくので)米国などで、戦後「べビ―ブーマー時代」はもう少し長く続いたか

⑤ 小学校で二部授業の記憶はない、3年生までは芦屋、4年生は東京都杉並区上高井戸、4年生から中学卒業までは埼玉県浦和市だった。みんな貧乏で、子供たちは勉強中心だった。午後3時半ごろ学校から帰ると、日が暮れるまで、近所の子供たちと遊んでいた。塾などなかった。私は6年生までガキ大将だった。メンコ遊びで負かして、小さい子達からメンコを奪ったことがある。学校の給食は、駐留軍支給のコッペパン中心だったか、記憶は定かでない(父は、結核のため、昭和23年に私が10歳のときに亡くなった)

⑥ 1950年(昭和25年)6月に朝鮮戦争が勃発し、3年以上戦闘が行われた。いったん、韓国軍は南部の大都市プサン近くまで追い詰められたが米軍の介入により巻き返し、その勢いで北朝鮮軍を中国国境まで追い詰めたが、今度は中国軍(義勇軍という名目)の参加により押し返され、結局、38度線前後でにらみ合う形で、休戦協定が結ばれた。その間に、日本企業や経済は韓国や米軍に対する軍用品や日用品購入による「朝鮮特需」に恵まれ、復興のための大きな機会を得た。

⑦ 当時は、第2次大戦後の冷戦体制の真っ只中だった。戦争直後から、欧米の資本主義自由主義連合とソ連圏の共産主義・社会主義体制との覇権争いが始まっていた。ソ連(スターリン)は1945年5月のナチス・ドイツ崩壊に伴い、ポーランドまで圏内に納めていた(冷戦は1990年代初めのソ連圏崩壊まで続いた)

⑧ 日本経済は、復興期を経て、1955年(昭和30年)頃から高度成長期を迎へ、年率約10%で経済成長していった。労働者が働けば、企業が成長し、国が発展した。幸せな時代だった。高度成長は、第4次石油ショックが起こる1973年(昭和48年)まで続いたと記憶する。日本経済は1968年に西ドイツを抜いて、自由主義諸国第2位の経済大国となった。1990年代初めにソ連圏が崩壊してから日本は世界第2位の経済大国となり、最近、中国に抜かれるまでその地位を維持してきた。資源のない極東の島国で、日本人はよくやってきたと言えようか?

⑨ 我々は、ともかく勉強中心だった。安定した大企業に就職するためにできるだけ評価の高い高校や大学に合格するのが、終始一貫した目標だった。私は1958年(昭和33年)に大学に何とか合格したが、教養学部1年半と経済学部2年半で何を勉強したか、よくわからない。文系のうち、法学部は憲法、民法、商法、訴訟法、国際法、労働関係法、産業別法、外国法(英米法、フランス法、ドイツ法など)など法律と条文、政策、裁判と判例が明治時代以来の蓄積があり、学ぶべきことは多々あるのに対して、経済学部の場合は、経済原論、財政学、金融論、国際経済学など担当する教授によって方法論や内容は異なり、確立していないような感じだった。法学と経済学との本質的違いではなかろうか?(ともかく、「経済学部は遊んでも卒業できる」と言われているが、今でもそうか?)当時は、大学卒は同期の2割程度だったが、現在は5割強となっている。今では懐かしい思い出だ

⑩ 我々世代までは、(特に男は)仕事中心だろうが(朝から晩まで夢中で働く)、団塊の世代以後は、仕事・家庭・レジャーのバランス中心だろう。現在の現役・若者世代はどうだろうか。要するに、我々世代は適当な相手と結婚して子育てにはげむことを求められていたのだろうか。それでも大半の男女は比較的幸せだっただろう?労働者が働き、企業が成長し、国家が急速に発展していたから。経済が成熟・低迷し、個人主義が中心の現在では考えられないか

⑪ 日本経済が70年代に石油ショック(1973年に中東の石油産出機構が原油価格を1バーレル当たり2ドルを一挙に8ドルに引上げた)を契機に、安定成長時代(年率4%程度)に移行してから、歴史的転換期の1989年(平成元年)まで日本に何があったのか?グローバルな動向にうまく対応したのか。内向き日本の欠点が働いたのか。世界第2の経済大国であるのに!いつでもリーダーシップ、責任を取りたがらない?(我々はでしゃばらない―国内でも世界でも)

⑫ 高度成長時代に就職した我々は幸せだった。私は1962年(昭和37年)に電電公社(現NTTグループ)に入社したが、初任給は当初16100円であったが、春闘の妥結により4月に遡って17800円となった。その後も、4月に定期昇給し、春闘によりベースアップして、昇格もあり、給料はどんどん?上がっていった。当時はそんな時代だった。有難い春闘はいつまで続いたか。当時は、終身雇用制、年功序列賃金、企業内組合が労使関係の3点セットだった。非正規雇用など聞いたことがなかった。経済成長のおかげだった。我々は末端でともかく働いた。半ドンの土曜日がすべて休みになったのはいつだったか。我々はひたすら働いたか、他にすることがなかったので?

⑬ 日本経済の転換期となったのは、1985年9月22日に先進5カ国(米英独仏日)によって結ばれた「プラザ合意」だったのではないか。米国経済は戦後世界で圧倒的な存在であったが、欧州諸国や日本経済の急速な復興により、相対的に弱体化し、ドル相場の位置づけの問題が重大化していた。ドルに対して円は戦後極めて弱かったが、経済発展とともに円高基調となり、輸出競争力も増していった。1971年には、1ドル=360円から308円に切り上げたが、その後さらに円の競争力は強くなっていった。そこで、プラザ合意(ニューヨークのプラザ・ホテル)により、円高の方向が合意され、1年後には170円、2年後には120円に引上げられた。(この結果、日本の円ベースの国内総生産(GDP)は殆ど変わらないのに、ドルベースでは世界有数となり、1人あたりGDPでは世界最大の部類となった。これからバブル崩壊まで一部日本人の思い上がりを生ずることとなった。我々は40台だった)しかし、これに伴い日本からの輸出が困難となり、輸出企業の多くは海外、特に東南アジアに生産拠点を移していった。国内製造業の空洞化が始まった。一方、日本企業の進出に伴って、東南アジア諸国の経済発展の契機となったと考えられる(私は9月20日に成田空港をたって2週間の米国出張を行ったが、行く前に1ドル:240 円でドルを買ったが、帰国後残ったドルを円に変えたら、1ドル=220円となって、損する結果となった)

⑭ 次は激動の1989年(平成元年、私は50歳)

・ 昭和天皇(1901年生れ)の逝去―1月7日に昭和天皇が亡くなり、63年に及ぶ昭和時代が終わった。平成の時代が始まった。天皇は12月末から危篤状況だったので驚かなかった。(盛岡の駅構内を朝7時頃に散歩していたときにアナウンスで知った)

・ 6月4日朝に中国で北京・天安門事件が起こった。春頃から学生による民主化運動が始まっていた。ソ連のゴルバチョフ書記が中国を訪れ、民主化を中国政権と話し合っていた。これに反発した実力者の鄧小平・元総書記が軍隊による学生の弾圧に踏み切ったのだと見られている。数百人が殺されたと発表されているが数千人との説もある。天安門事件は今でも中国ではタブーだ(インターネットでは論議を呼んでいるようだが。私はその数日後に虎ノ門病院に入院し、カテーテル検査を受けた結果、心臓に血液を送る冠状動脈が詰まっているのでその部分を拡大する一種の内科的手術を受けた。)

・ 夏頃から、東欧諸国では民主化をめぐる人民運動が盛んとなっていった。特に、東ドイツの民衆が社会主義の同盟国であるハンガリーに抜けて、その西ドイツ国境に押し寄せ、西ドイツへの旅行の自由を求めた

・ この結果、東ドイツの国境警備隊の連絡不十分もあり、11月9日深夜に「ベルリンの壁の崩壊」が生じた。ベルリンの壁は1961年に築かれ、西側と東側を数百キロに渡って分断していた。壁構築まで数百万人(東ドイツ人口の6分の1)が東から西へ自由と豊かさを求めて避難していた。東ドイツ市民はこっそりテレビで毎日豊かな西ドイツの街や人々の繁栄を見て我慢ならなくなったのだろう(私はドイツ出張の際に当時の西ドイツの首都のボンから西ベルリンに飛び、日曜日に東ベルリン・バスツアーに参加したことがあったが、東ベルリンの商店街は貧しく、人通りも少なく、青空だけが印象に残った。繁華な西ベルリンとはえらい違いだった。壁の崩壊と東西ドイツ人の交流状況は、自宅のテレビで見ていいた)

・ これに伴って、ソ連圏諸国の民主化が進展し、次々にソ連圏を離れ、冷戦体制は90年代初めに崩壊した

・ 世界は、90年代以降のグローバリゼーション時代を迎える

・ この後、国際競争力を強化するため、日本企業は雇用弾力化のための規制緩和・制度改革もあり、非正規雇用(派遣社員、アルバイトなど)が次第に増加していった

⑮ 中国共産党は、日本支配の後、国共内戦を経て、1949年10月に勝利して、中華人民共和国を建国した。今日で67年になる。1970年代末から、登正平の改革・開放戦略により経済成長戦略を取り、30年以上にわたり、高成長を維持してきた。2008年頃には日本を抜いて、米国に次ぐ世界第2の経済大国に躍り出た。中国は、最近では、周辺諸国に対する覇権主義的態度を隠さなくなっており、必ずしも国際ルールを遵守しないこともある。中国人にとっては、19世紀のアヘン戦争の敗北から1949年の中華人民共和国建国までの約1世紀が欧米諸国や日本による侵略が非常に屈辱的な記憶となっているのだろう

⑯ 日本経済は、90年代初期までのバブル時代の後、バブル崩壊後の長期にわたるバブル崩壊時代(「失われた10年(ロスト・ディケード)」も3回目?)となっている。もう働き者の現役世代は、我々よりあとの世代になっている

⑰ 我々世代は、1995年から2005年にかけて60歳となり、定年を迎え、数年後には完全退職し、第2の人生時代を迎えている。ただ、日本が日米同盟の下でとりあえず「一国繁栄主義」を貫くことができた90年代まで発展できたことは我々世代(昭和10年代生まれ)が働く上でとても幸いであったと考えるかどうか?ともかく50歳ぐらいまでは、グローバリゼーションの影響は少なかったと言えよう。

⑱ しかし、仕事中心だった我々世代は退職後、何を目標として余生を生きるか?欧米では、50歳頃を過ぎると、できるだけ早く退職して、自分の人生をいかにエンジョイするかを目指すと言われている。日本人はどうか。仕事以外に何があるか?今や、リタイア後90歳ぐらいまでいかに生きるかが問われる時代となっている。生産年齢人口も減少しており、退職年齢も60歳から65歳、さらに延ばされる状況にある。

⑲ 日本が発展した後に成人した40代以下の世代(我々世代の子供たち)では、社会や経済は停滞の印象しかないのだろうか。彼らに自分たちと日本の明るい将来展望と夢はあるのか。グローバルな時代において日本と日本人はどうあるべきか。現在の日本の若者は成熟の時代において従来の集団主義から自分中心の個人主義に移行しているのだろうか(ある意味で当然かもしれない。成熟した国において、働く自分と企業の発展と国家の成長を結びつけることができる時代ではないだろうー我々の若い時代のように)

⑳ 先輩である「昭和一けた世代(戦後復興で活躍した)」と後輩の「団塊の世代(日本人の新しい局面を開いた)」のハザマで、昭和十年代生れの我々世代は、それなりに地味にがんばってきたといえようか?今や後期高齢者ともなり、何を目標として生きるか(目標など要らないか)

21 世界の覇権国から見て、18世紀がフランスやオランダの時代、19世紀が英国の時代、20世紀が米国の時代であったとすれば、21世紀はアジアの世紀になると言われている。とりわけ、中国(人口:約14億人弱)とインド(約12億人強、いずれ中国を抜くと予想されている)、東南アジア(約6億人)が経済発展を維持し、世界経済の過半を占めると見られている。成熟し、国力が徐々に衰退していく日本は「アジアの時代」においていかなる役割を果たすべきか?閉鎖的な国民性を内外に向けて開放するためにどうすべきか。キャリアを形成できない非正規雇用問題にいかに対処すべきか(総雇用に占める非正規雇用の割合は現在約4割(女性では半分以上)と推定されているが、もっと増える可能性も指摘されている)

22 極東の島国で、資源もなく、それでも明治維新以来、日本は米国・英国・フランス・ドイツなどと並ぶ、いわば列強の位置づけとなり、経済的にはこれまでそれなりによくがんばってきたと言えるか?現在でも、香港、シンガポールという島国を除けば、1人あたりGDP(国内総生産)では、アジアでは、まだ圧倒的である(円高・円安いかんで揺れるが、現在、日本は約4万ドルであるが、中国は7000ドル、インドは2000ドル程度である。中国政府は2020年までに1人当たり1万2000ドルの実現を目指しているが、どうなるか)

23 冷戦時代の終了後、グローバリゼーションの時代となり、政治、経済、社会、文化などのあらゆる面で、国際的結びつきは強まっている。イデオロギーの対立から、民族、人種、宗教、移民・難民問題などが、国際的紛争の中心となっている。国家間の対立や戦争から国内外のグループ間の対立・争い・テロ行為に移行している

24 2016年11月に行われた米国大統領選挙で、ドナルド・トランプ(70歳、共和党)という型破りのビジネスマンが「アメリカ・ファースト」を掲げて予想に反して当選し、雇用中心の保守主義の政策を展開しようとしている。世界的に見ても、自国中心の保守主義が進展する動きが始まりつつある。英国の「ブレグジット(EU離脱)」やフランスなどの移民・難民排斥運動など。中国やロシアなど権威主義の大国が国際情勢に対していかなる影響を持つか

25 しかし、政治、社会、文化などの面では、日本は国際的に見ると世界をリードする存在ではないだろう―同質的であり、他人も自分と大体同じように考えていると思い、コミュニケーションや議論が少ない。日本人同士であればとりあえず相手を疑わない「性善説」を取っている国は日本人しかないのではないか。日本以外では、まず相手を疑ってかかる「性悪説」が主流であろう。日本では、平均的な民度(教育水準、規律、勤勉など)は高いが、卓越したリーダーは殆ど現れない(ランクが上がるごとに調整型のリーダーしか残らない)また、人口減少が始まり、高齢化も進展しており、65歳以上の高齢者は総人口の27%(3300万人以上)を占めている。(2050年には、高齢者比率は38%となると予想されている) 高齢化の問題は、やがて他の主要国でも現実化すると予想されており、日本はその課題解決モデルとなることも考えられる。日本は、将来、アジアや世界の経済や社会の発展にいかに貢献するか

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