About pictures/当ブログ内の写真について/당 블로그내의 사진에 대해서

Most of the pictures in this blog are taken by my camera, yet some of them were downloaded from the website of the hiking club. If you click any pictures, they become the original size.

当ブログ内の写真の大部分は筆者のカメラで撮影したものですが、一部、山岳会の共有写真からダウンロードしたものを含みます。すべて、各写真をクリックすれば、元のサイズに拡大します。

당 블로그내 사진의 대부분은 필자의 카메라로 촬영한 것입니다만 일부 산악회 공유 사진으로부터 다운한 것도 포함합니다. 모두 각 사진을 클릭하면, 원래 사이즈에 확대합니다.

2017年10月20日金曜日

SR #2 Blue Mountains Trekking “Three Sisters and Leura Forest”ブルーマウンテン・トレッキング 「スリーシスターズとルーラの森」

Sydney Report #2 Blue Mountains Trekking “Three Sisters and Leura Forest”

Course: Katomba Station – Echopoint – Leura Forest – Leura Cascades – Leura Station

The weather in Sydney is really fine all through the year. Various kinds of beautiful flowers are blooming all year, and you can see many different kinds of birds everywhere. I feel like I was in heaven.

Since the labor cost is rather high, eating out is generally expensive, but ingredients such as rice, bread, vegetables, and fruits are reasonable cost.

My nationality is Japanese, so I am a “foreigner” in Australia, but since I got a parent visa, I have “permanent residency”which enables me to acquire Medicard, Senior Card and Senior/Pensioner Opal Card (Discount Public Transportation Use).

However, there are two events which I can hardly enjoy here in Australia (I thought). One is hot spring, the other is hiking.

I heard that there are several hot springs available in NSW, but they are expensive and far from my location.

But I found that hiking was possible last year. Thanks to my Korean acquaintance, now I enjoy hiking almost every week.

There are two main destinations: one is trekking courses in Blue Mountains, the other is trekking courses along Sydney Harbour Bay.

While M (one of my nephew’s daughter) is visiting Sydney, they planned to walk in Blue Mountains, so M and I joined them.

There were 4 Koreans: Mr. Kim who is my neighbor and whom I came to know first at a church. Mr. Yoo, who is an owner of 4 shops (2 sushi shops and 2 bakeries), Mr. Lee, a strong hiker who is to visit Greece as a Christian volunteer for refugees, and Mr. Choi, a retiree of a Korean national university.

First of all, M and I saw Mr. Kim at Chatswood Station. We took a train to Strathfield where there are many Korean people.


[A train to Blue Mountains, ブルーマウンテン行き列車、블루마운틴 행 열차]

We saw Mr. Yoo and Mr. Lee there. We dropped in a coffee shop, then we bought “Kimpap” for lunch at a supermarket there.

We took a 9:30 train at Strathfield to Blue Mountains. Mr. Choi came to join us at Penrith Station.

We originally planned a loop route at Leura area, but since it is the first time for M to visit Blue Mountains, Mr. Kim changed the plan as the hike from Ecopoint to Leura for M and me.

Mr. Yoo and Mr. Lee got off at Leura Station, and the rest of us went to Katomba Station.


[At Katoomba, カトゥンバ市内にて、카툰바 시내에서]

We walked from Katomba Station to Echopoint on the street. We walked fast and M followed us.


[The Three Sisters, スリー・シスターズ、세 자매봉]

When we arrived at Ecopoint, M was deeply impressed by the magnificent view. She shouted with joyful cry!


[At Ecopoint, エコポイントにて、에코 포인트에서]

After taking some pictures, we walked to the “Honeymoon Bridge”and then we walked down “Giant Staris.”


[Honeymoon Bridge, ハネムーン・ブリッジ、허니문 브리지]

It blew a strong wind and my cap was blown away. Fortunately it was stack at a tree branch, and a kind officer of the park picked it up for me.

We met the two members from Leura Station at the bottom of Giant Stairs and had lunch there.


[At lunch time, ランチタイム、점심 시간]

After the lunch, we walked through Leura Forest and took several pictures at Leura Cascades, then we walked to Leura Station.


[At Leura Cascades, ルーラの滝にて、룰라 폭포에서]


[At Leura Cascades, ルーラの滝にて、룰라 폭포에서]


[At the exit of the trail, コースの出口にて、트레킹 코스 출구에서]

We came back from Leura Station to Central, then changed trains to Chatswood.


[At Leura Station, ルーラ駅構内にて、룰라 역 구내에서]

It took 2.5 hours for one way, and 5 hours for a return trip, and cost me only 2.5 dollars.

Even though if I take a bus from Chatswood Station to a bus stop near our home, it costs nothing.

If I use Senior/Pensioner Opal Card, no matter how many times or distance I use public transportation, I pay only 2.5 dollars a day. Now nice!

The Senior/Pensioner Opal Cards are applied for trains, buses, and ferry-boat fees.

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Sydney Report #2 ブルーマウンテン・トレッキング 「スリーシスターズとルーラの森」

コース:カトゥンバ駅 – エコポイント – ジャイアント・ステアーズ - ルーラの森 – ルーラの滝 – ルーラ駅

オーストラリアのシドニーは一年を通じて気候が良い。様々な美しい花が一年を通じて咲き誇り、また、様々な動物、とくに美しい鳥たちが変わった鳴き声で鳴いて、極楽のようだ。

人件費が高いため、外食は総じて高めだが、主食のパンやお米(私の場合は玄米)は安いし、果物や野菜も安い。

私の国籍は日本なので、オーストラリアでは外国人なわけだが、Parent Visaを持つと永住権を得るわけで、医療カード、シニアカード、シニア用交通カードなどが利用でき、診療サービスや交通機関の利用料金で優遇される。

ただし、日本にあってこちらでは享受が難しいイベントが2つある。1つは温泉で、もう1つはハイキングである。

温泉はシドニー近郊を含め数か所あるということだが、それらの場所は遠いのと、料金が高いということを聞いている。

だが、ハイキングに関しては、ここ、チャッツウッドに住んでいても可能であることが、昨年分かった。

毎週土曜日ごとにハイキングに出かける韓国人グループを知り、ほぼ毎週、そのイベントに参加している。

その目的地は主に2つあり、一つはブルーマウンテン内のトレッキングコースで、もう一つはシドニー湾の周りにトレッキングコースだ。

今回、SR1号で紹介した甥の娘のMが訪豪中に、ブルーマウンテンのトレッキング計画があったので、われわれも参加することにした。

韓国人同行者は、チャッツウッドのご近所のキムさん、寿司屋2軒をふくむ4つの店舗のオーナーの柳さん、10月から3カ月、ギリシャでクリスチャンの奉仕予定の李さん、ペンリス在住で韓国の順天大を定年退職した崔さんの4人だ。

まず、キムさんとはチャッツウッド駅前で待ち合わせ、8:13発のT1ラインで、シドニー市内を抜けてブルーマウンテン方面へ行く途中のストラスフィールド駅に向かった。


[In the trains to Blue Mountains,ブルーマウンテン行き列車車内にて、블루마운틴 행 열차 차내에서]

このストラスフィールド駅前はコリアンタウンの様相をみせるほどの韓国人の多い街で、ここの駅前がブルーマウンテンへ行く時の集合場所になる。

ここで李さんと柳さんが合流し、韓国人の喫茶店でコーヒーを飲み、また、その近所で昼食用の韓国風海苔巻き「キムパプ」を調達した。

ブルーマウンテン方面行きの列車は9:30出発で、ブルーマウンテンの各駅には11:30前後に到着する。途中のペンリス駅から崔さんが合流した。

当初はルーラ駅で下車してルーラの複数の滝を見学し、有名な「三姉妹」の麓で折り返すコースを予定していた。

しかし、キムさんがブルーマウンテン初体験のMのために、カトゥンバのエコポイントからの「三姉妹」の展望をみてから、ルーラの森を歩いてルーラ駅に到達するコースに変えてくれた。(柳さんと李さんはオリジナルコースで、ほかは新コース)

カトゥンバ駅からエコポイントまで、住宅街を20分ほど歩くが、みなさんのスピードはかなり速い。Mがついてこれるかちょっと心配したが、問題ないようだ。

エコポイントからスリーシスターズの展望はブルーマウンテンの中でも有名なもので、青い空をバックにした雄大なながめにMは感嘆の声を上げた。


[At Ecopoint, エコポイントにて、에코 포인트에서]

エコポイントから三姉妹の岩にかかる橋(ハネムーンブリッジ)まで、ゆるやかなトレイルを下り、ブリッジに到達したところで、強風にあおられ、私がヒマラヤで購入した帽子が飛んでしまった。


[At the Honeymoon Bridge, ハネムーン・ブリッジにて、허니문 브리지에서]

幸い、トレイルわきの木にひっかかり、たまたまそばにいた職員がスティックを伸ばして取ってくれた。

その後、ブリッジから「ジャイアント・ステアーズ」を下って、ルーラの森から来るチームと合流し、ここで昼食を食べた。


[Atlunch time, ランチタイム、점심 시간]

その後、ルーラの森を経て、すばらしい滝(Leura Cascades)で集合写真を撮ってから、やや厳しい階段を上ってルーラ駅に向かった。


[At Leura Cascades, ルーラの滝にて、룰라 폭포에서]


[At Leura Cascades, ルーラの滝にて、룰라 폭포에서]


[At the exit of the trail, コースの出口にて、트레킹 코스 출구에서]

ルーラ駅からは往路をそのまま復路として電車で約2時間半かけてチャッツウッド駅に戻ってきた。

ブルーマウンテンを楽しむためには往復5時間の列車の旅をしなければならないが、シニア用交通カードを使うと、料金は2.5ドル(約250円)で済む。

ちなみにチャッツウッド駅から私の住む家までのバスの料金は、無料となる。(1日にNSW州内であれば、電車、バス、フェリーなど何回利用しても2.5ドルである。)

2017年10月19日木曜日

「定年後-50歳からの生き方、終わり方」(楠木新、中央公論社新書)まとめby Nobuki Hori(堀伸樹)

「定年後-50歳からの生き方、終わり方」(楠木新、中央公論社新書、 2017円4月、著者は1954年生まれ、「会社が嫌いになったら読む本」、 「サラリーマンは、二度会社を辞める」、「知らないと危ない、会社の裏 ルール」など好著あり)

― 日本社会では、「定年」制度があり、1000人以上の会社では、9割の社員は「60歳」、6%程度の社員は「65歳以上」になると辞めなければならない、60歳で引退するのは早い、定年制度は終身雇用と年功序列賃金に基づくものであり会社として経営を維持するために必要となっている、しかし自営業では定年はない、定年後も継続雇用制度(再雇用)を適用している場合もある、ただし、勤務条件は通常かなり低下する、前期高齢者(65-74歳)と後期高齢者(75歳以上)ではライフサイクルが異なる、定年の60歳から74歳までの黄金期間をどう過ごすか、自由時間が増えるので趣味を持つ、米国では定年制はない(雇用における年齢差別禁止法)、定年後はお金が一番心配、イキイキした人は2割未満、高齢者のトリップ(移動)は10年で2倍、誰もが一人ぼっち、悠々自適は75歳以上の後期高齢者で、「亭主元気で留守がいい」、経済優先から人生優先へ、日本人の平均寿命―男:80.5歳、女:86.8歳、退職後も社会と間接的につながる、在職中に専門性を磨く、高齢者の定義を現在の「65歳以上」から「75歳以上」に変えてはどうか(65-74歳は「准高齢者」)、高齢になっても社会の一員として生きる、定年後の目標は「いい顔」で過ごすこと ―

① 人生は後半戦が勝負

・ 自由にできる8万時間

・ 75歳までの「黄金の15年」

・ 50代からの助走で大丈夫

・ 「いい顔」で死ぬために

・ 終わりよければすべて良し

・ 定年後に待ち受ける「現実」を明らかにし、真に豊かに生きるためのヒントを考える

② 経済的な余裕だけでは足りない

・ 某氏は、高校卒後同じ会社で40年働いて、60歳以後も働くつもりだったが、定年退職の数ヶ月前に、会社から、週3日の勤務で、労働時間は週に20時間という条件を示されて、驚いた

・ 特に、嘱託のため社会保険が付与されないことに驚いた。

・ 彼の会社では、60歳以降に雇用延長する社員を2つに分けて、上位層には給与は下げてもそれなりの対応をするが、そうでない社員は社会保険が付与されない嘱託扱いとなる

・ また、仕事の内容も、店舗の応援要員で仕事の繁簡や社員の休暇で働く場所が変わった

③  ライフプラン研修とおりにはいかない

・ 社員が50代になると、定年後に向けて社内で「ライフライン研修」が少なくない。労働組合がセミナーを主催していることもある。内容は以下の4点であろう

・ 受け取る年金額をきちんと計算して老後の資産を管理すること

・ 今後長く暮す配偶者と良好な関係を築くこと

・ これから老年期に入るので自分の体調面、健康にも十分に配慮すること

・ 退職後は自由な時間が生まれるので趣味を持たなければならない

・ 多くの会社の就業規則では、定年は60歳であり、まだまだ体力、気力、経験もあって、引退するには全然早すぎると言えるだろう

・ 対象者は、これから社会人になる新人社員でなく、40年近く組織で働いてきた人間なのである

④ 全員が合格点

・ 定年制を定めている1000人以上の企業の割合は95.4%、「60歳」とする企業が90.4%、「65歳以上」が6.7%である。全体としてはほぼ60歳となっている(就業規則に記載されている)

・ 定年年齢も55歳から上昇して、1998年(平成10年)以降に60歳定年制が義務化された。

・ 定年制度は、おかしいという見方がある―60歳になったら強制的に会社を辞めなければならない。60歳は引退するには早すぎる。働く意欲と能力がある人を一律にやめさせることは合理的ではない。今後の高齢化社会を考えると、社会的にも損失であろう」

・ 個人の自立的人生設計のために、定年はなくすべきだ

・ 自営業では定年はなく、米国においても「雇用における年齢差別禁止法」によって、年齢を理由とした雇用差別は禁止されている。「定年は当たり前の制度ではない」

・ 当たり前ではない定年制度が、個々の社員の意欲に合致せず、人材活用の面からも合理的でなく、社会経済的の問題があるにもかかわらず、当然のように運用されてきたのか

・ 企業も、60歳以降でも働く社員にどういう仕事を付与するかも各社で検討されている

・ 定年を必要とする理由は企業内の年功的な賃金体系によるものであり、給与が、社員が若いときには、貢献度より低い賃金を払い、中高年になるとその差分を追加して支払っている。この結果、定年が必要になってくるというものである

・ また、定年までは解雇されないという雇用保障の側面がある

・ 働いている間は、自分のライフステージとキャリアステージの両方を会社が面倒を見てくれたが、定年以降はそれらが全く期待できなくなる

⑤ 定年後の雇用延長

・ 2013年に改正高年齢者雇用制度が施行されて、企業は3つのどれかを選択しなければならなくなった―定年の引き上げ、継続雇用制度の導入、定年の定めの廃止

・ 大半の会社は、雇用継続制度(再雇用)の導入で対処している

・ ただし、定年前の勤務条件が延長されるわけではない―役職はなくなり、契約も一年後との業務委託契約となり、報酬も大幅に削減されたりする。定年前の3割水準という場合もある

・ 仕事も補助的な作業や、単純な作業を割り当てられることもある

・ お金のことが一番心配―老後の生活の不安、「老後破産」医療費や介護の心配

・ 年金財政と同様に、介護保険の収支もきびしくなっている

・ 生命保険文化センター「生活保障に関する調査」(2016年)-夫婦2人の老後日常生活費:月額22.0万円、25年間で6000万円、65才以上になって受け取る標準的な厚生年金額:22.0万円(これに退職金や企業年金などを加えると、最低限の生活費は何とかなるだろう)

・ 投資のリスクには注意―安全性を前提に分散投資をしてはどうか

⑥ イキイキした人は2割未満?

・ 「半年経つと立ち上がれない」-定年退職後の生活のリズムをいかにつけるか(会社を退職した当時は、開放感は予想以上だった)

・ 曜日の感覚がなくなる、手帳を見ることが少なくなった

・ 36年間の会社生活を終えて、定年で退職したが、開放感は残っていたが、同時に会社からの拘束や仕事上の義務などの中に自分を支えていたことがあったことに気がつき始めた。

・ 会社員は自分で工夫しなくても、会社が自然と「オン」と「オフ」のスイッチを切り替えてくれる―始業、昼休み、終業のチャイム、同僚と一緒のランチなど ・ 退職に伴い、36年間の生活リズムが崩れだし、遅く起きる生活習慣に移行する。一方、学生時代は宵っ張りの生活だった ・ 退職した後も、会社員当時の夢を多く見るようになったのは不思議な感じだった。

・ 名前を呼ばれるのは、病院だけ―家族からは「お父さん」と呼ばれ、電話やファクスも自分宛には来ない

・ 同じ通勤電車、同じ仕事、同じ同僚、変わらないランチ、それをあと5年も続けることが嫌になり、定年退職を選択したが、それらが懐かしくなってきた

・ どのような人が、「いつ」、「どのような目的で・交通手段で」「どこからどこへ」移動したかについて行った「パーソン・トリップ調査」によると、男性の「自宅-通勤」は、25歳~59歳までは27%から31%でほぼ変わらないが、60歳~64歳では20%、65歳から69歳では11%と激減する。定年退職の影響が表われている。女性では、「自宅-通勤」は、25歳から29歳で26%と最も高く、30歳から59歳までは15%~19%となっている。60歳から64歳で10%、65~69歳で5%と激減する

・ 高齢者(65歳以上)のトリップ数は2008年には10年前に倍増しており、高齢化社会の進展がうかがえる

・ また、調査では、非高齢者の代表交通機関は鉄道であるが、高齢者では自動車などに取って代わられる。仕事を辞めた高齢者が自宅近くで活動する例が多いのだろう

・ スポーツクラブは大盛況―住宅地域に近いターミナル駅にあるスポーツクラブは、開館の9時には長い行列ができる。男性、女性を問わず高齢者が並ぶ姿は壮観だ。午前中は高齢者が中心となっている。午後になると、主婦など女性が見えるようになり、夕刻以降は仕事帰りの若い男女が目に付く

・ 一方、図書館では、開館後、高齢者の間で読みたい新聞の取り合いになったりする

・ ショッピングセンターなどでも、高齢の男性が増えている

⑦ 定年退職者を探せ

・ 証券会社は、投資運用や相続税対策などで相談するために、多くの年配者が訪れていた

・ 60歳過ぎの定年退職者は、まだ若いそうだ。

・ 昼間の映画館やカラオケ店でも1人で来る男性が多いようだ。理髪店でも10時開店直後は高齢者の男性が多い

・ 誰もが一人ぼっち―定年退職者の特徴(退職後の「居場所がない」)

・ クレーマーは元管理職が多い―多分、退職後の高齢の男性が店の店員などにクレームをつけている場合が多い。その場合、苦情を言うのは元管理職が多いようだと推定される

・ 60代の高齢者の話―「元気な人は同期の1割5分」元気な人は、教育関係に取り組んでいる、若い人に役立つことをやっている、若い頃の自分をもう一度取り戻している、会社以外の仕事にかかわってきた

・ 悠々自適は似合わない―退職で自由になった時間をどうすごしていいかわからない人は少なくない。「毎日やることがなくて困っている」、一番自由な今が一番しんどい」、「家で居場所がない」、「暇になったのにあせる」、「嫌な上司もいないよりマシ」

・ 「このままの毎日が続くと思うと、「自分の人生は何だったのか」と思うことがある」

⑧ 亭主元気で留守がいい

・ 日本人男性は世界一孤独?-仕事以外の日常生活において、友人や同僚とスポーツや教会、文化的サークルや活動に参加した経験に関するOECD調査によると、日本人男性の場合、「殆どない」が17%で一番高い部類となっている(OECD平均:7%)

・ 日本人男性は、定年退職とともに仕事だけでなく人間関係も失うことになる―「定年後、日本人男性は世界一孤独となる」

・ 退職後は、名刺も役に立たなくなる

・ 会社は天国?-60歳で退職して引退するのは少数派だ。会社に行けば、人に会える、昼食を一緒に食べながらいろいろ情報交換できる、若い人とも話ができる、出張は小旅行、接待は遊び、歓迎会、送別会など。遊び仲間、飲み友達もできる、会社のお金でゴルフもできたりする、規則正しい生活となる。上司がしかってくれる、会社は家以外の居場所となる。

・ 家族が手を焼いている定年退職者は少なくないようだ―妻にあれこれ言ったり、テレビも独占したりする

・ 主人在宅ストレス症候群―夫の在宅によってもたらされるストレスが主な原因となる主婦に発生する様々な疾患(うつ病、高血圧、ぜんそく、十二指腸潰瘍、キッチンドリンカーなど)

・ 経済優先から人生優先へ

⑨  「黄金の15年を輝かせるために

・ 役職と定年後は相関しない―

・ ライフサイクルで考える―「論語」の中で、孔子は「15歳で学問を志し、30歳で独り立ちし、40歳で迷うことがなくなり、50歳で天命を理解し、60歳で人の意見を素直に聞けるようになり、70歳で思いのままに行動をしても人の道を踏み外すことがなくなる」

・ 定年後は3段階―平均寿命、平均余命、健康寿命

・ 厚生労働省による2014年の平均寿命―男性:80.50歳、女性:86.83歳(男女とも毎年少しずつ伸びている)

・ 60歳の男性の平均余命:23.56歳(85歳前まで)、女性:28.68歳(90歳近く)

・ 健康寿命(健康で活動できる期間)―男性:79.55歳の平均寿命に対して70.42歳(不健康期間:9.13年)、女性:86.30歳に対して73.62歳(12.68年)しかし、健康期間はもう少し長いのではないか

・ 男性の3つのパターンー2割弱の男性は70歳になるまでに健康を損ねて亡くなるか介護が必要となる。7割の男性は75歳頃から徐々に自立度が落ちていく。残りの1割の男性は90歳近くまで自立を維持する。女性は9割近くが70歳半ばから衰えていく、男女とも後期高齢者に該当する70台半ばから徐々に自立度が落ちてくる

・ 従って、「65-74歳の前期高齢者」と「75歳以上の後期高齢者」とは、ライフステージが変わると言っていい

・ 「日本老年学会」は、2017年に、高齢者の概念を75歳以上に見直し、65-74歳は「準高齢者」と変えるように提案している

・ 本書では、「定年後」は60歳―74歳までを主な対象としている

・ 身体が健康であれば自分が目指すものに挑戦し、悠々自適は75歳以上の後期高齢者になってから考えたらどうか

・ 本当の黄金期間は定年退職後の60-74歳までの15年間だ―8万時間(11時間×365日×15年)

⑩ 社会とどうつながるか

・ 「重い夫婦、軽い夫婦」―クルーズツアーに乗っていたある奥さんは夫と一緒は耐えられないという感じだった。軽い夫婦の夫は、まだ組織で働いているとか事業をしていた。重い夫婦の夫は会社を退職して家でゆっくりしている人が多かった

・ 社会と間接的につながる―会社員は、会社を通じて社会と間接的に向き合って、書類を作成するなどして、給料をもらっている。一方、個人事業主は直接社会とつながっている。

・ しかし、退職すると、社会とのつながりがなくなってしまう。ただし、このことを認識している人は極めて少ない。

・ ニーズがつかめない―在職中に専門性を磨いておくことが、退職によって社会とのつながりがなくなることに対する唯一の対策だろう。

・ 定年後の60歳から74歳までは、自分自身を縛るものが少なく、活力を持って動ける「黄金の15年」である。人生後半戦の最大のポイントであり、自分らしいものを見出したい。

⑪ 定年退職後の仕事の例

・ メーカーの部長職→美容師

・ 生保会社の部長職→保健分野の大学教授

・ 総合商社の営業マン

・ 鉄鋼会社の社員→蕎麦うち職人

・ 電機メーカーの管理職→高校の校長

・ 小学校教師→市議会議員

・ 損害保険会社の社員→トマト農家

・ 市役所の職員→大道芸人

・ 薬品会社の人事担当役員→セミナー講師

・ 石油会社の社員→翻訳家

・ メーカーの営業マン→墓石販売

・ 通信会社の社員→提灯職人

・ スーパーの社員→NPOの職員

・ 地方公務員→ 耳かき職人

・ 得意なことに軸足を移す

・ 「60歳から始める小さな仕事」-古本屋、蕎麦屋、パン屋、リフォーム店、葬儀屋、役者、僧侶、漁師、タクシー運転手、通訳・翻訳家、花農家など

・ 定年後に仕事をしたい人は、会社にいる40台ぐらいから、市場調査をしたり、商売のやり方を考えておく必要がある。会社員人生の後半である40代後半や50台から助走を始めるのが、スムーズな定年後につながる

・ 子供の頃の自分に立ち返る―小さい頃からものづくりが大好きで、手作りの模型飛行機などを作っていた電機メーカーの社員が、定年後の「リフォーム屋」で優れた仕事をしている例がある。

・ 会社員のときに身につけた知識や技量を定年後に生かす

・ 高齢になっても社会の一員として生きるようにしたい

⑫ 居場所を探す

・ 「定年退職後は、自分の活動の場、居場所は地域になる」ーこれは、定年後のことを頭でしか捉えていない

・ 例えば、停年退職者どうし農園で協力しながら、農作物を作るなど

・ 同窓会に出ると、脳が活性化される―50代になると同窓会が増えるが、昔の記憶をよみがえらせるので。また、会社以外の世界を知る機会となる、

・ 「居場所」―地域での活動、都市の中での農園での活動、大学院での学び、田舎に帰る、など。自分で見つける

・ 家族はつらいよ―「お父さんと居るのが私のストレス」、家族も年を取る

⑫ 「死」から逆算する

・ 定年後は逆算型生き方

・ 還暦のときに行われた高校の同窓会では、すべてのクラスで物故者がいた。定年後に何が起きても不思議ではない

・ 「生が終われば死も終わる」

・ 60歳の定年退職者は「元気で働ける年齢を74歳」とするなら、また、「残りの人生が30年あるなら」、死を意識してそこから逆算して自分の未来を考える

・ 「最後に食べたいもの」―最後の昼食は豚マン、「お袋のおにぎり」(ジャイアント馬場)

・ 「良い顔」で死ぬために生きている―定年後の目標は「いい顔」で過ごすこと。

2017年10月18日水曜日

「この時代の日本に生きて―昭和10年代生まれ(70-80歳)の場合」by Nobuki Hori堀伸樹著

「この時代の日本に生きて―昭和10年代生まれ(70-80歳)の場合」

堀伸樹

―戦争末期、復興期、高度成長時代、安定成長時代、長期低迷期、我々世代は20世紀から21世紀にわたり、昭和と平成にかけて、かなりの経験をした、戦後復興で活躍した昭和一けた世代と日本人の新しい局面を開いた団塊の世代の間で我々地味な世代はどうだったか? 比較的幸せだったか(個人にもよるだろう)、我々世代はよく働いたか、日本人の国民性―同質的、経済水準や教育水準・民度は高い、島国根性、優れたリーダーは現れない、多様な議論やコミュニケーションが少ない、第3の開国(明治維新、戦後の復興に次ぐ)に向けていかに閉鎖性を打破するか、グローバリゼーションの進展において主体的にどうすべきか、2020年代以降のアジアや世界の発展にいかに貢献するか―

① 我々は、昭和10年代生まれ(1935-45年)であり、昭和一けた世代(80代)と戦争直後の「団塊の世代(昭和22-25年:1947―1950生まれ、いまや65歳以上)」の中間にある。その後は50代(1955-65年生まれ)、40代(1965-75年生れ)の時代となる。それぞれの世代は、日本のこれまでの発展に対していかなる感慨を持っているか

② 1939年生まれの私の場合、戦争の思い出は殆どないが、終戦の1945年4月に兵庫県芦屋市立山手小学校に入学し、終戦直前の8月5日夜に阪神地方に空襲があり、母に手を引かれて近くの親戚の防空壕に避難したかすかな記憶がある。借家の50メートル先までの地区は焼夷弾で焼かれた。終戦の日(8月15日)の記憶はない。また、戦前以来の軍事教育の記憶もない

③ 日本の殆どの都市は、連合軍の爆撃によって破壊され、惨憺たる状態だった。内外の300万人以上の日本人が死亡したと見られる。そこから日本の戦後の復興が始まった

④ 戦争が終わって平和となり、その直後、昭和22年から25年頃までベビーブームとなり、いわゆる「団塊の世代」が登場した。我々の同期(同じ年に生まれた人の数)は約200万人だが、彼らは250万人だった(現在20代の世代では120万人,今では100万人,今後どんどん減っていくだろう。主要な出産年齢の20歳―40才過ぎの女性の数が次第に減っていくので)米国などで、戦後「べビ―ブーマー時代」はもう少し長く続いたか

⑤ 小学校で二部授業の記憶はない、3年生までは芦屋、4年生は東京都杉並区上高井戸、4年生から中学卒業までは埼玉県浦和市だった。みんな貧乏で、子供たちは勉強中心だった。午後3時半ごろ学校から帰ると、日が暮れるまで、近所の子供たちと遊んでいた。塾などなかった。私は6年生までガキ大将だった。メンコ遊びで負かして、小さい子達からメンコを奪ったことがある。学校の給食は、駐留軍支給のコッペパン中心だったか、記憶は定かでない(父は、結核のため、昭和23年に私が10歳のときに亡くなった)

⑥ 1950年(昭和25年)6月に朝鮮戦争が勃発し、3年以上戦闘が行われた。いったん、韓国軍は南部の大都市プサン近くまで追い詰められたが米軍の介入により巻き返し、その勢いで北朝鮮軍を中国国境まで追い詰めたが、今度は中国軍(義勇軍という名目)の参加により押し返され、結局、38度線前後でにらみ合う形で、休戦協定が結ばれた。その間に、日本企業や経済は韓国や米軍に対する軍用品や日用品購入による「朝鮮特需」に恵まれ、復興のための大きな機会を得た。

⑦ 当時は、第2次大戦後の冷戦体制の真っ只中だった。戦争直後から、欧米の資本主義自由主義連合とソ連圏の共産主義・社会主義体制との覇権争いが始まっていた。ソ連(スターリン)は1945年5月のナチス・ドイツ崩壊に伴い、ポーランドまで圏内に納めていた(冷戦は1990年代初めのソ連圏崩壊まで続いた)

⑧ 日本経済は、復興期を経て、1955年(昭和30年)頃から高度成長期を迎へ、年率約10%で経済成長していった。労働者が働けば、企業が成長し、国が発展した。幸せな時代だった。高度成長は、第4次石油ショックが起こる1973年(昭和48年)まで続いたと記憶する。日本経済は1968年に西ドイツを抜いて、自由主義諸国第2位の経済大国となった。1990年代初めにソ連圏が崩壊してから日本は世界第2位の経済大国となり、最近、中国に抜かれるまでその地位を維持してきた。資源のない極東の島国で、日本人はよくやってきたと言えようか?

⑨ 我々は、ともかく勉強中心だった。安定した大企業に就職するためにできるだけ評価の高い高校や大学に合格するのが、終始一貫した目標だった。私は1958年(昭和33年)に大学に何とか合格したが、教養学部1年半と経済学部2年半で何を勉強したか、よくわからない。文系のうち、法学部は憲法、民法、商法、訴訟法、国際法、労働関係法、産業別法、外国法(英米法、フランス法、ドイツ法など)など法律と条文、政策、裁判と判例が明治時代以来の蓄積があり、学ぶべきことは多々あるのに対して、経済学部の場合は、経済原論、財政学、金融論、国際経済学など担当する教授によって方法論や内容は異なり、確立していないような感じだった。法学と経済学との本質的違いではなかろうか?(ともかく、「経済学部は遊んでも卒業できる」と言われているが、今でもそうか?)当時は、大学卒は同期の2割程度だったが、現在は5割強となっている。今では懐かしい思い出だ

⑩ 我々世代までは、(特に男は)仕事中心だろうが(朝から晩まで夢中で働く)、団塊の世代以後は、仕事・家庭・レジャーのバランス中心だろう。現在の現役・若者世代はどうだろうか。要するに、我々世代は適当な相手と結婚して子育てにはげむことを求められていたのだろうか。それでも大半の男女は比較的幸せだっただろう?労働者が働き、企業が成長し、国家が急速に発展していたから。経済が成熟・低迷し、個人主義が中心の現在では考えられないか

⑪ 日本経済が70年代に石油ショック(1973年に中東の石油産出機構が原油価格を1バーレル当たり2ドルを一挙に8ドルに引上げた)を契機に、安定成長時代(年率4%程度)に移行してから、歴史的転換期の1989年(平成元年)まで日本に何があったのか?グローバルな動向にうまく対応したのか。内向き日本の欠点が働いたのか。世界第2の経済大国であるのに!いつでもリーダーシップ、責任を取りたがらない?(我々はでしゃばらない―国内でも世界でも)

⑫ 高度成長時代に就職した我々は幸せだった。私は1962年(昭和37年)に電電公社(現NTTグループ)に入社したが、初任給は当初16100円であったが、春闘の妥結により4月に遡って17800円となった。その後も、4月に定期昇給し、春闘によりベースアップして、昇格もあり、給料はどんどん?上がっていった。当時はそんな時代だった。有難い春闘はいつまで続いたか。当時は、終身雇用制、年功序列賃金、企業内組合が労使関係の3点セットだった。非正規雇用など聞いたことがなかった。経済成長のおかげだった。我々は末端でともかく働いた。半ドンの土曜日がすべて休みになったのはいつだったか。我々はひたすら働いたか、他にすることがなかったので?

⑬ 日本経済の転換期となったのは、1985年9月22日に先進5カ国(米英独仏日)によって結ばれた「プラザ合意」だったのではないか。米国経済は戦後世界で圧倒的な存在であったが、欧州諸国や日本経済の急速な復興により、相対的に弱体化し、ドル相場の位置づけの問題が重大化していた。ドルに対して円は戦後極めて弱かったが、経済発展とともに円高基調となり、輸出競争力も増していった。1971年には、1ドル=360円から308円に切り上げたが、その後さらに円の競争力は強くなっていった。そこで、プラザ合意(ニューヨークのプラザ・ホテル)により、円高の方向が合意され、1年後には170円、2年後には120円に引上げられた。(この結果、日本の円ベースの国内総生産(GDP)は殆ど変わらないのに、ドルベースでは世界有数となり、1人あたりGDPでは世界最大の部類となった。これからバブル崩壊まで一部日本人の思い上がりを生ずることとなった。我々は40台だった)しかし、これに伴い日本からの輸出が困難となり、輸出企業の多くは海外、特に東南アジアに生産拠点を移していった。国内製造業の空洞化が始まった。一方、日本企業の進出に伴って、東南アジア諸国の経済発展の契機となったと考えられる(私は9月20日に成田空港をたって2週間の米国出張を行ったが、行く前に1ドル:240 円でドルを買ったが、帰国後残ったドルを円に変えたら、1ドル=220円となって、損する結果となった)

⑭ 次は激動の1989年(平成元年、私は50歳)

・ 昭和天皇(1901年生れ)の逝去―1月7日に昭和天皇が亡くなり、63年に及ぶ昭和時代が終わった。平成の時代が始まった。天皇は12月末から危篤状況だったので驚かなかった。(盛岡の駅構内を朝7時頃に散歩していたときにアナウンスで知った)

・ 6月4日朝に中国で北京・天安門事件が起こった。春頃から学生による民主化運動が始まっていた。ソ連のゴルバチョフ書記が中国を訪れ、民主化を中国政権と話し合っていた。これに反発した実力者の鄧小平・元総書記が軍隊による学生の弾圧に踏み切ったのだと見られている。数百人が殺されたと発表されているが数千人との説もある。天安門事件は今でも中国ではタブーだ(インターネットでは論議を呼んでいるようだが。私はその数日後に虎ノ門病院に入院し、カテーテル検査を受けた結果、心臓に血液を送る冠状動脈が詰まっているのでその部分を拡大する一種の内科的手術を受けた。)

・ 夏頃から、東欧諸国では民主化をめぐる人民運動が盛んとなっていった。特に、東ドイツの民衆が社会主義の同盟国であるハンガリーに抜けて、その西ドイツ国境に押し寄せ、西ドイツへの旅行の自由を求めた

・ この結果、東ドイツの国境警備隊の連絡不十分もあり、11月9日深夜に「ベルリンの壁の崩壊」が生じた。ベルリンの壁は1961年に築かれ、西側と東側を数百キロに渡って分断していた。壁構築まで数百万人(東ドイツ人口の6分の1)が東から西へ自由と豊かさを求めて避難していた。東ドイツ市民はこっそりテレビで毎日豊かな西ドイツの街や人々の繁栄を見て我慢ならなくなったのだろう(私はドイツ出張の際に当時の西ドイツの首都のボンから西ベルリンに飛び、日曜日に東ベルリン・バスツアーに参加したことがあったが、東ベルリンの商店街は貧しく、人通りも少なく、青空だけが印象に残った。繁華な西ベルリンとはえらい違いだった。壁の崩壊と東西ドイツ人の交流状況は、自宅のテレビで見ていいた)

・ これに伴って、ソ連圏諸国の民主化が進展し、次々にソ連圏を離れ、冷戦体制は90年代初めに崩壊した

・ 世界は、90年代以降のグローバリゼーション時代を迎える

・ この後、国際競争力を強化するため、日本企業は雇用弾力化のための規制緩和・制度改革もあり、非正規雇用(派遣社員、アルバイトなど)が次第に増加していった

⑮ 中国共産党は、日本支配の後、国共内戦を経て、1949年10月に勝利して、中華人民共和国を建国した。今日で67年になる。1970年代末から、登正平の改革・開放戦略により経済成長戦略を取り、30年以上にわたり、高成長を維持してきた。2008年頃には日本を抜いて、米国に次ぐ世界第2の経済大国に躍り出た。中国は、最近では、周辺諸国に対する覇権主義的態度を隠さなくなっており、必ずしも国際ルールを遵守しないこともある。中国人にとっては、19世紀のアヘン戦争の敗北から1949年の中華人民共和国建国までの約1世紀が欧米諸国や日本による侵略が非常に屈辱的な記憶となっているのだろう

⑯ 日本経済は、90年代初期までのバブル時代の後、バブル崩壊後の長期にわたるバブル崩壊時代(「失われた10年(ロスト・ディケード)」も3回目?)となっている。もう働き者の現役世代は、我々よりあとの世代になっている

⑰ 我々世代は、1995年から2005年にかけて60歳となり、定年を迎え、数年後には完全退職し、第2の人生時代を迎えている。ただ、日本が日米同盟の下でとりあえず「一国繁栄主義」を貫くことができた90年代まで発展できたことは我々世代(昭和10年代生まれ)が働く上でとても幸いであったと考えるかどうか?ともかく50歳ぐらいまでは、グローバリゼーションの影響は少なかったと言えよう。

⑱ しかし、仕事中心だった我々世代は退職後、何を目標として余生を生きるか?欧米では、50歳頃を過ぎると、できるだけ早く退職して、自分の人生をいかにエンジョイするかを目指すと言われている。日本人はどうか。仕事以外に何があるか?今や、リタイア後90歳ぐらいまでいかに生きるかが問われる時代となっている。生産年齢人口も減少しており、退職年齢も60歳から65歳、さらに延ばされる状況にある。

⑲ 日本が発展した後に成人した40代以下の世代(我々世代の子供たち)では、社会や経済は停滞の印象しかないのだろうか。彼らに自分たちと日本の明るい将来展望と夢はあるのか。グローバルな時代において日本と日本人はどうあるべきか。現在の日本の若者は成熟の時代において従来の集団主義から自分中心の個人主義に移行しているのだろうか(ある意味で当然かもしれない。成熟した国において、働く自分と企業の発展と国家の成長を結びつけることができる時代ではないだろうー我々の若い時代のように)

⑳ 先輩である「昭和一けた世代(戦後復興で活躍した)」と後輩の「団塊の世代(日本人の新しい局面を開いた)」のハザマで、昭和十年代生れの我々世代は、それなりに地味にがんばってきたといえようか?今や後期高齢者ともなり、何を目標として生きるか(目標など要らないか)

21 世界の覇権国から見て、18世紀がフランスやオランダの時代、19世紀が英国の時代、20世紀が米国の時代であったとすれば、21世紀はアジアの世紀になると言われている。とりわけ、中国(人口:約14億人弱)とインド(約12億人強、いずれ中国を抜くと予想されている)、東南アジア(約6億人)が経済発展を維持し、世界経済の過半を占めると見られている。成熟し、国力が徐々に衰退していく日本は「アジアの時代」においていかなる役割を果たすべきか?閉鎖的な国民性を内外に向けて開放するためにどうすべきか。キャリアを形成できない非正規雇用問題にいかに対処すべきか(総雇用に占める非正規雇用の割合は現在約4割(女性では半分以上)と推定されているが、もっと増える可能性も指摘されている)

22 極東の島国で、資源もなく、それでも明治維新以来、日本は米国・英国・フランス・ドイツなどと並ぶ、いわば列強の位置づけとなり、経済的にはこれまでそれなりによくがんばってきたと言えるか?現在でも、香港、シンガポールという島国を除けば、1人あたりGDP(国内総生産)では、アジアでは、まだ圧倒的である(円高・円安いかんで揺れるが、現在、日本は約4万ドルであるが、中国は7000ドル、インドは2000ドル程度である。中国政府は2020年までに1人当たり1万2000ドルの実現を目指しているが、どうなるか)

23 冷戦時代の終了後、グローバリゼーションの時代となり、政治、経済、社会、文化などのあらゆる面で、国際的結びつきは強まっている。イデオロギーの対立から、民族、人種、宗教、移民・難民問題などが、国際的紛争の中心となっている。国家間の対立や戦争から国内外のグループ間の対立・争い・テロ行為に移行している

24 2016年11月に行われた米国大統領選挙で、ドナルド・トランプ(70歳、共和党)という型破りのビジネスマンが「アメリカ・ファースト」を掲げて予想に反して当選し、雇用中心の保守主義の政策を展開しようとしている。世界的に見ても、自国中心の保守主義が進展する動きが始まりつつある。英国の「ブレグジット(EU離脱)」やフランスなどの移民・難民排斥運動など。中国やロシアなど権威主義の大国が国際情勢に対していかなる影響を持つか

25 しかし、政治、社会、文化などの面では、日本は国際的に見ると世界をリードする存在ではないだろう―同質的であり、他人も自分と大体同じように考えていると思い、コミュニケーションや議論が少ない。日本人同士であればとりあえず相手を疑わない「性善説」を取っている国は日本人しかないのではないか。日本以外では、まず相手を疑ってかかる「性悪説」が主流であろう。日本では、平均的な民度(教育水準、規律、勤勉など)は高いが、卓越したリーダーは殆ど現れない(ランクが上がるごとに調整型のリーダーしか残らない)また、人口減少が始まり、高齢化も進展しており、65歳以上の高齢者は総人口の27%(3300万人以上)を占めている。(2050年には、高齢者比率は38%となると予想されている) 高齢化の問題は、やがて他の主要国でも現実化すると予想されており、日本はその課題解決モデルとなることも考えられる。日本は、将来、アジアや世界の経済や社会の発展にいかに貢献するか

2017年10月10日火曜日

「不機嫌な長男:長女、無責任な末っ子たち―きょうだい型:性格および コミュニケーション」五百田(いおた)達成著、概要・編集by Nobuki Hori堀伸樹

「不機嫌な長男:長女、無責任な末っ子たち―きょうだい型:性格および コミュニケーション」(五百田(いおた)達成、ディスカバー社、 2016年11月、著者は作家心理カウンセラー、「察しない男説明し ない女」シリーズなど)

「仕事、恋愛、結婚、友人・・・あらゆる人間関係に役立つ」、長子: 「きまじめな王様」、末子:「したたかなアイドル」、中間子:「永遠の 思春期」、一人っ子:「マイペースな天才肌」、人間関係に弱い、おせ っかい、価値観が合う、きょうだい構成の意義、まじめ、要領がい い、マイペース、責任感、他力本願、バランス感覚、自分と相手の 性格を比較してつき合う―

① こんなに違う!4つの「きょうだい型」

・ 長子は、A型のライオン。末子は、O型のライオン。中間子は、AB型のカメレオン。一人っ子はB型の猫

・ 長子は、デリカシーがない。末子は、ガッツがない。中間子は、素直さがない。一人っ子は、常識がない

・ 長子は、仕事に成長を求める。末子は、仕事にバランスを求める。中間子は、仕事に人間関係を求める。一人っ子は、仕事にやりがいを求める

・ 長子は、恋人には甘える。末子は、恋人にはそっけない。中間子は、恋人にはわがまま。一人っ子は、恋人には意外と尽くす

・ 長子は、価値観が合う人と結婚する。末子は、気が合う人と結婚する。中間子は、自分を好きな人と結婚する。一人っ子は、自分が好きな人と結婚する

・ 長子は、理想主義で子育てをする。末子は、現実主義で子育てをする。中間子は、博愛主義で子育てをする。一人っ子は、溺愛主義で子育てをする

② 家族はもっとも原始的なコミュニティ

・ 「三つ子の魂、百まで」

・ 人の性格は「きょうだい構成」によって支配されている

・ 長子(ちょうし)―きょうだいの一番上、末子(まっし)―きょうだいの一番下、中間子(ちゅうかんし)―3人以上のきょうだいの長子と末子以外、一人っ子(ひとりっこ)―きょうだいがいない

・ すべての人は必ず、「一人っ子」または「末子」として生まれる。その後弟妹が生まれた場合、暫定で一人っ子だった子は、「長子」、暫定末子は「中間子」へと、きょうだい型は変化する

・ 性格は親・きょうだいとの関係で決まる―おせっかい、まじめ、要領がいい、マイペース

・ ただ1人の子供である「長子」「一人っ子」には、親からの期待や注目、プレッシャーが容赦なく降り注ぐ―そのため、大きく道を踏み外すことはできないし、おおむねまじめな生き方をせざるを得ない

・ 「要領がいいグループ」は、「2番目以降の子ども」―親からの注目や期待が小さく、さらにライバルであり目の上のたんこぶである兄姉がいるという環境で生まれる。空気を読んで器用に兄や姉のまねをし、要領よく利益にありつこうとする性格に育つようになりやすいか

・ 「おせっかいグループ」は、下にきょうだいがいる「長子」「中間子」は、小さい頃から世話を焼くことに慣れているので、大人になっても他人に介入し、面倒を見ようとする傾向がある

・ 「マイペース型グループ」は、下にきょうだいがいないので大人になっても誰かに干渉しようという発想がなく、さらに自分のことも「誰かがやってくれる」と、どこかノホホンとしている

③ きょうだい型を知るメリット

・ 自分では意識していなかった性格、考え方の根っこの部分を知ることができる

・ 親やきょうだいの行動原理がわかり、家族付き合いが楽になる

・ 親や夫、子どもの考え方がわかり、夫婦のやり取り、子育てにも役立つ

・ 恋人や友人、職場の同僚の性格がわかり、コミュニケーションが円滑となる

④ きょうだい型」別性格と相性

・ 長子―責任感と自尊心の強い生まれながらの「王様」。仕事は末子、結婚は長子同士がうまくいく

・ 末子―ノリと愛嬌でしたたかに人生を謳歌する「アイドル」。相性がいいのは末子同士、一人っ子にはイライラすることも

・ 中間子―繊細で複雑で感受性が強い「永遠の思春期」。誰とでもうまくやっていけるが、中間子同士の恋愛には要注意

・ 一人っ子―人間関係オンチでマイペースな、いわば「帰国子女」。ラクなのは、一人っ子同士、世話焼きの長子との相性もいいか

⑤ 長子 ・ 「最も親に愛されている」 自尊心ときょうだいへの責任感

・ 多くの親が「結局、一番目の子が一番可愛い」と告白する

・ 長子のときは、妊娠、出産、ハイハイの様子、七五三、入学式と何百枚と写真を撮るが、中間子では数十枚に減り、末子に至ってはほぼゼロになる

・ 責任感が強く、面倒見がいい。自尊心が強く人に任せられない。ボーっとしていて人の気持ちに鈍感

・ 人を支配しコントロールしようとする傾向もあるか

・ おおむね鷹揚でボーっとしている

⑤ 末子

・ サービス精神と社交性に溢れた「アイドル」

・ 末子は家庭内で「アイドル」的存在。幼い頃はもちろん、大人になっても家族みんなに可愛がられ、かまわれ、いじられる存在

・ 甘え上手で他力本願、要領がよくてしたたか、ノリがよく享楽的

・ 末子には、長子のように、しっかりしなくちゃという責任感やプライドは生まれない

・ 末子たちは口をそろえて、「きっと誰かが何とかしてくれる」という他力本願的な心情

・ いつもピリピリしている長子を「大変そう」と横目に見ながら、末子は楽しい毎日を謳歌しようとする吟遊詩人

・ 相性がいいのは末っ子同士、一人っ子にはイライラすることもある

・ 末っ子同士で仕事をするのは要注意、末っ子お得意の「誰かが何とかしてくれる」が発揮され、誰も舵を取らず、一向に仕事が進まなくなる危険性がある

⑥ 中間子

・ 長子と末子のハーフであり、「中間管理職」的存在

・ 中間子の性格を現すキーワードは「思春期」-十代の中高生のように、他人が自分をどう思っているかが気になるし、周囲の人間関係も気になる。些細な言動に一喜一憂しては、クヨクヨしがちになる

・ 繊細な八方美人、優れたバランス感覚、考えすぎの目立ちたがり屋

・ 妹や弟と一緒にいるときは「上」として扱われ、兄や姉と一緒にいるときは「下の子」として扱われ、コロコロ役割が変わるので、自然とバランス感覚が養われる

・ 誰とでもソコソコうまく付き合える器用さを持っている

・ 一家団欒のときに、放っておくと自分の話はしてもらえない、何でも一番の長子と愛玩される末子との間で、親の関心を引くのは容易ではない

・ 人間関係にめっぽう強い「人づきあいのエキスパート」

・ 誰とでもうまくやっていけるが、中間子同士の恋愛は要注意-双方ともに、駆け引きや相手を試すような行為に走ってしまい、台無しになる可能性がある

・ 中間子は、空気を読むことに長けていて、相手に合わせるのが得意、その分、我慢を重ねて、ストレスをため込む傾向がある

⑦ 末子

・ ゆるぎない親の愛情を受けて、マイペースで素直人間に

・ きょうだいがいないので、「長子、末子、中間子グループ」とは全く異なる価値観を持って大人になる

・ さながら、「兄弟がいる人たちの国」に迷い込んだ帰国子女のような存在

・ 世間の常識にとらわれず独自のルールで行動する「マイペース」「自分勝手」

・ マイペースで常識にとらわれない、自分の興味関心に忠実、人間関係オンチ

・ 人づきあいは苦手だが、自分の興味関心へのエネルギーは絶大

・ 一人っ子の感覚で最もユニークなのは、他人との距離感―きょうだいとおもちゃを奪い合ったり、一緒になって親に刃向かったりしたことがないので、とくに同年代の人間との関係の築き方に慣れていない

・ 人間関係の細かなニュアンスを体得しないまま大人になったため、人づきあいそのものが苦手

・ ラクなのは一人っ子同士、世話好きの長子との相性もあるか

・ 真逆の性格である中間子とは、仕事の面で補完し合えるといい効果が生まれる

⑦ 更なる特徴

・ 進路―長子は、道を切り開く。末子は、ラクな道を行く。中間子は、道に迷う。一人っ子は、わが道を行く

・ 価値観―長子は、やるべきことをやる。末子は、やれそうなことをやる。中間子は、みんながやらないことをやる。一人っ子は、やりたいことだけをやる

・ 欠けているもの―長子は、デリカシーがない。末子は、ガッツがない。中間子は、素直さがない。一人っ子は、常識がない

・ 決断―長子は、よく考えて決断する。末子は、人に決断してもらう。中間子は、決断を先延ばしする。一人っ子は、よく考えずに決断する

・ ピンチ―長子は、ピンチにもろい。末子は、ピンチに見て見ぬ振り。中間子は、ピンチに張り切る。一人っ子は、ピンチに気付かない

・ チャンス―長子は、チャンスに気付かない。末子は、チャンスに浮かれる。中間子は、チャンスにしり込みする。一人っ子は、チャンスをつくる

・ 仕事やキャリアに求めるもの―長子は、成長を求める。末子は、ワークライフバランスを求める。中間子は、人間関係を求める。一人っ子は、やりがいを求める

・ チームワーク―長子は、自分がやるべきだと思っている。末子は、誰かがやってくれると思っている。中間子は、誰かがやるべきだと思っている。一人っ子は、自分のことだけやりたいと思っている

・ 打ち合わせ・会議―長子は、嫌われても言うべきことは言う。末子は、おいしいところを持っていく。中間子は、場の空気を優先する。一人っ子は、ぜんぜん違う話をする

・ 注意される・叱られる―長子は、「自分が悪かった」と反省する。末子は、「自分のせいじゃない」と開き直る。中間子は、「何で自分だけ」といじける。一人っ子は、「・・・!」とパニックとなる

・ 褒められる―長子は、「私なんてまだまだ」と謙遜する。末子は、「自分はすごい」と増長する。中間子は、「裏があるのでは」と深読みする。一人っ子は、「・・・!」と動揺する

・ 友達づきあい―長子は、頼られたい。末子は、甘えたい。中間子は、八法美人。一人っ子は、一方美人

・ 金銭感覚―長子は、人のために金を使いたい。末子は、人のお金を使いたい。中間子は、お金にシビア。一人っ子は、お金に無頓着

・ 恋愛―長子は、恋人には意外と甘える。末子は、恋人には意外とそっけない。中間子は、恋人には意外とわがまま。一人っ子は、恋人には意外と尽くす

・ 実家との関係―長子は、実家にちょくちょく顔を出す。末子は、実家にダラダラ居座る。中間子は、実家から距離を置く。一人っ子は、実家から結局離れられない

・ 子育て―長子は、理想主義。末子は、現実主義。中間子は、博愛主義。一人っ子は、溺愛主義

参考:五百田達成(いおた・たつのり) Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%99%BE%E7%94%B0%E9%81%94%E6%88%90

議論を楽しむために(アトランダムに) ―後期高齢者となった我々世代は、もはや何もおもんばかることなく、 しかも時間は無限にあり?- written by Nobuki Hori堀伸樹

議論を楽しむために(アトランダムに) ―後期高齢者となった我々世代は、もはや何もおもんばかることなく、 しかも時間は無限にあり?- 堀伸樹著

・ この時代の日本に生きて幸せだったか―我々、現役・若者世代?、個人として、世代として

・ 日本と日本人の長所と短所-例えば、日本人は常に他人がどう考えているかに気を使う

・ 2020年代以降の日本の国家ビジョン―アジアと世界の中でいかに位置づけるか。それに基づいていかなる政策を展開すべきか ・ もはや、日本は一国繁栄主義ではやっていけない―どうすべきか

・ 日本人は多様な議論とコミュニケーションが不足している―以心伝心、他人も自分と大体同じ考え方だと考えている、沈黙は金、出る釘は打たれるなど

・ 日本は今後、アジアと世界にいかに貢献すべきか

・ 日本にはどうして優れたリーダーが現われないのか―ランクが上がるごとに調整型の人物が中心となる

・ 日本人の閉鎖性をいかに打開すべきか―日本では、なぜ多様な人材が育たないのか

・ 極東の小さい島国でよくここまでやってきた!―江戸時代以来の教育の重要性によるものだろうか(これからも教育は一番重要だろう。しかし、従来のような、特に高等教育では、優れた人材は育たないのではないか。初等・中等教育は確立されていると考えるが―60年前の記憶に基づいて)

・ イスラム教徒の数は現在、世界で16億人(世界人口の23%)であり、20年後には30億人(35%)に達すると予想されている(ピュー研究所)―あまり縁のない我々は、イスラム国やイスラム教徒といかに付き合うべきか

・ 世界で騒ぎを起こしている「イスラム国(IS)」の若者たちは、イスラム教の教えとは合致しないという見方がある―問題は、先進国における難民・移民の置かれた差別状況によるものと見られている(宗教の問題を含めて)

・ それぞれ一神教のキリスト教徒とイスラム教徒の間で行われる紛争はどうなるのか―多宗教の存在を認め、しかも無宗教が多い日本人には想像がつかない

・ 日本では?「男より女に生まれたほうが楽しい」という見方についてどうか

ていないので、旧日本軍が20世紀前半にアジア大陸で犯した国際的犯罪について実感がない(加害者はすぐ忘れるが、被害者は何世代も忘れないのかもしれない。将来、中国と韓国の経済が日本を追い越したと感じられるようになれば、問題は少なくなるか?)

・ 非正規雇用の増加の問題にいかに対処すべきか―全体で4割を超えており、女性では半数以上となっている(キャリアが形成されず、一生非正規労働で終わる可能性が高いー結婚・出産・育児が困難となるなど、日本経済の成長のマクロ的観点からも重大な問題であろう)

・ 国内総生産(GDP)の240%に達する国家債務という根本的問題をいかに処理するのか―日本経済に対する信頼が一たん失われると、金利が一挙に跳ね上がる可能性がある ・ 同質的な日本では、総無責任体制の傾向があり、誰も責任を取りたがらない?(常に責任があいまい―どうしてこうなるのか)

・ グローバリゼーションが進展し「アジアの世紀」といわれる21世紀において、人口減少と高齢化が進む日本は、特に若者・現役世代をいかに育成すべきか

・ 70代後半からの生きる目標は何か―個人として、世代として

・ 年金問題はどうなるのか―我々世代は何とかもらえるが、将来世代は十分な手当てをもらえないかもしれない

・ 最近の国際情勢をどう捉えるべきか―米国のトランプ大統領の就任や「ブレグジット(英国の欧州連合離脱)」やフランスなどで近く行われる選挙など、ナショナリズムや保護主義的動きの拡大をどう見るか?こういう国際的風潮において、人口減少・高齢化が進展し始めた日本は2020年代以降、どう対処すべきか。過去の世界史で同様な状況が起こったことはあったのか。日米関係はどうなるか。米中関係はどうなるか?「Gゼロ(戦後世界情勢を仕切ってきた米国のような存在がなくなった状態)」はどのように展開するのか。

・ 世界がグローバル化を拡大しているのに、日本の若者が内向きになっていると言われている。

・ 日本が将来当面する総合的、組織的、戦略的問題にいかに取組むべきか、という検討がどうして行なわれないのか―やはり議論が少なすぎる

・ われわれ高齢者(投票率が高い)だけでなく、もっと若者・現役世代の主張が経済政策などに反映されるべきだろう

・ 最近、街で見かける老若の男女一人ひとりの幸福を密かに願うようになった―もうあまり先はないので!

2017年10月3日火曜日

Sydney Report #1 Sydney City Tour (シドニーのシティ・ツアー)

Sydney Report #1 Sydney City Tour

Last year, I came to Chatswood, Sydney alone and stayed with my first son’s family for 3 months (Oct., Nov, Dec.) to test the water. This year, I came with my wife, and we are going to live for 4 months.

Soon after we came to Chatswood, the 1st week of September in 2017, one of my nephew’s daughter, M (20) came to our son’s home for home-staying.


[At Sydney Airport, シドニー空港にて、시드니 공항에서]

Since our first son and his wife have 4 kids, we are a big family of 8, and having a visitor made us 9 by all. But we all enjoyed having this visitor and showed her the best of Sydney.

Our son took a day off and we went to see our guest at the airport. After putting her luggage at the house in Chatswood, we (my son, the guest, my wife and myself) went to the City and began Sydney City Tour utilizing a sightseeing bus ride.

My son bought tickets by internet and he took us two places before taking the sightseeing bus.

First, he took us to “Mrs. Macquaries Point” where we can see the Opera House and the Harbor Bridge at the same time. It is the view point at the eastern end of the Royal Botanical Gardens.


[At Mrs. Macquaries Point, ミセス・マクワイアズ・ポイントにて、미세스 마쿠와이아즈 포인트에서]

Later I found out that there is a sand-rock chair called "Mrs. Macquarie's Chair." Here I quote from Wikipedia as below.

“Mrs Macquarie's Chair is an exposed sandstone rock cut into the shape of a bench, on a peninsula in Sydney Harbour, hand carved by convicts from sandstone in 1810 for Governor Macquarie's wife Elizabeth. The peninsula itself is named Mrs Macquarie's Point, and is part of the Domain, near the Royal Botanic Gardens.”


[A view from Mrs. M's Point, ミセスMポイントからの展望、미세스 M 포인트에서 전망]

My nephew’s daughter, M, seemed to have pre-visit research about Sydney sightseeing spots. She asked our son to take her to the places in her wish-to-visit list. So he took us to St Mary's Cathedral near Mrs. Macquarie’s Point.

St Mary's Cathedral is the cathedral church of the Roman Catholic Archdiocese of Sydney and the seat of the Archbishop of Sydney, currently Anthony Fisher OP. It is dedicated to the "Immaculate Mother of God, Help of Christians", Patroness of Australia and holds the title and dignity of a minor basilica, bestowed upon it by Pope Pius XI on 4 August 1932.


[Heading for St. Mary Cathedral,セントメアリー大聖堂へ向かう、세인트 메리 성당으로 향한다.]

St Mary's has the greatest length of any church in Australia (although it is neither the tallest nor largest overall). is located on College Street in the heart of the City of Sydney where, despite the high-rise development of the Sydney central business district, its imposing structure and twin spires make it a landmark from every direction. In 2008, St Mary's Cathedral became the focus of World Youth Day 2008 and was visited by Pope Benedict XVI who consecrated the new forward altar. [Quoted from Wikipedia]


[In front of St. Mary's Cathedral, セントメアリー大聖堂前にて、세인트 메리 성당 앞에서]

Photo-taking is prohibited so I cannot show you the pictures of inside. But anyone can entered the inside. We sat at the seats and felt the religious atmosphere.

Then we took the double-decker sightseeing bus. The audio-guide available with 8 different languages including Japanese.


[The City Tour Bus, シティツアー・バス、시티 투어 버스]


[On the City Tour Bus,シティツアー・バス内にて、시티 투어 버스 내에서]

It was my first experience to take the sightseeing bus in Sydney, so I enjoyed the view from the up-floor of the bus.


[On the City Tour Bus,シティツアー・バス内にて、시티 투어 버스 내에서]

We got off near Opera House. My son took M to a gift shop at Opera House, then we enjoyed tasty pizza with wine at Opera House Bar beside of Opera House.


[In front of Opera House,オペラハウス前にて、오페라 하우스 앞에서]


[At Opera House,オペラハウスにて、오페라 하우스에서]


[At Opera House Bar,オペラハウス・バーにて、오페라 하우스 바에서]

My son also took M to several places of her visit list, then we got off the bus at Darling Harbour.


[A view from the City Tour Bus,シティツアー・バスから、시티 투어 버스에서]

While my son was guiding my nephew’s daughter to the shop of her choice, my wife and I took chairs at Self-Service Frozen Yogurt Shop.

We bought cups of frozen yogurt. The PR picture of delicious-look frozen yogurt and price $3.4 caught my attention. I misunderstood the message. I took a cup and put frozen yogurt and much topping on it by myself Then casher weighted the cup and it was more than 300 g, therefore I ate more than $10 frozen yogurt!


[At Darling Harbour, ダーリングハーバーにて、달링 하버에서]

I finished the city tour of Sydney with the delicious but a bit expensive frozen yogurt.


[At Darling Harbour, ダーリングハーバーにて、달링 하버에서]

BTW, there are many interesting facilities such as Sydney Aquarium, Chinese Gardens, Australian National Maritime Museum, etc. It is worth taking time to visit such facilities.


[At Darling Harbour, ダーリングハーバーにて、달링 하버에서]


[At Darling Harbour, ダーリングハーバーにて、달링 하버에서]

Darling Harbour

https://en.wikipedia.org/wiki/Darling_Harbour

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シドニーレポート第1号 「シドニーのシティツアー」

私は昨年9月末から3か月間、シドニーノースエリアの中心地、チャッツウッドの息子一家の家に同居した。今年は8月末から4か月間、妻と共に同居を開始した。

我々がこちらへ来てすぐ、二十歳になる甥の娘Mが一週間、息子の家にホームステイに来た。息子夫婦には4人の子供がいるので、この間の同居人数は9人である。


[In the guest room of my son' house,息子の家の応接室にて、아들집의 응접실에서]

初日は息子が休みを取って空港へ出迎え、チャッツウッドの家へ案内してから、シドニーのシティ・ツアーに参加した。

シティ・ツアーは乗り降り自由の屋上タイプでオーディオ・ガイド付きのもの。乗り場はセント・メアリー大聖堂の近くバスストップだが、その前に息子はシドニーのオペラハウスやハーバーブリッジを一望にできる名所「ミセス・マッコリーズ・ポイント」に案内してくれた。


[At Mrs. Macquaries Point, ミセス・マクワイアズ・ポイントにて、미세스 마쿠와이아즈 포인트에서]

ここは、ロイヤル植物園の東端にあるビューポイントでオペラハウスとハーバーブリッジが同時に眺められる。

ニューサウスウェールズ州の初代総督ラクラン・マックォーリーの妻エリザベス・マックォーリーが、ここから街のスカイラインやイギリスからの船が入ってくることを眺めていたことから、1810年に命名されたという。


[A view from Mrs. M's Point, ミセスMポイントからの展望、미세스 M 포인트에서 전망]

この場所には、総督の妻エリザベスのために、受刑者たちにより砂岩で作らせたベンチがあり、ミセス・マッコーリーズ・チェア(Mrs. Macquarie's Chair)としても親しまれているということだが、うかつなことに、この岩の椅子には気がつかなかった。

甥の娘Mは事前にシドニーの観光スポットを調べていたらしく、行ってみたいところがかなりはっきりしていて、そのうちの1つが、セント・メアリー大聖堂である。

セント・メアリー大聖堂 は、ローマ・カトリックのゴシック・リヴァイヴァル建築による大聖堂で、歴代のシドニー大主教はここで教会の職務を遂行している。ニューサウスウェールズ州知事マッコーリーが1821年に建設計画を立て、イギリス人建築家ピュージンに依頼して建築されたが、1864年に初代の大聖堂は火事で消失した。その後、大聖堂を再建しようという機運が高まり、ピュージンの弟子のウォーデルにデザインを依頼し、再建が始まり、1930年にローマ教皇ピウス9世によって、教会堂より上位のバシリカであると認定された。2008年6月に教皇ベネディクト16世が公式訪問した。[ウィキペディアより引用]


[Heading for St. Mary Cathedral,セントメアリー大聖堂へ向かう、세인트 메리 성당으로 향한다.]

ここは内部の写真撮影は禁止であるが、出入りが自由で、厳粛な雰囲気の中で思索をするのもよい。また聖堂内の両壁には聖書のなかの重要なシーンを描いた絵がかかっていてそれを自由に見ることができる。


[In front of St. Mary's Cathedral, セントメアリー大聖堂前にて、세인트 메리 성당 앞에서]

この二か所を見学してからいよいよシティ・ツアーのバスに乗車した。音声ガイドは座席の横に設置されていて、日本語を含め8カ国対応となっている。


[Bus Stop for City Tour Bus, シティツアー・バス停留所、시티 투어 버스 정류장]

シドニーの街の案内がこのガイドで聴けるのは新鮮でよかった。また、座席も屋上で当然見晴しもよく、街路樹の新芽が春であることを感じさせる。


[On the City Tour Bus,シティツアー・バス内にて、시티 투어 버스 내에서]

最初の下車後の目的地はMのリクエスト通り、オペラハウス。ここは何度も来ているので私には新鮮味はないが、Mにはもちろん必須訪問施設だ。息子はオペラハウス内のお土産屋に案内し、外のテラスで待っていた妻に合流した。


[In front of Opera House,オペラハウス前にて、오페라 하우스 앞에서]

テラスのオペラハウス・バーで、ピザとワインの軽食を楽しみ、再び観光バスに乗って市内観光を続けた。


[At Opera House Bar,オペラハウス・バーにて、오페라 하우스 바에서]

Mがあらかじめぜひ行きたいといった数か所を息子が案内し、最後にダーリングハーバーのショッピングモール近くで下車した。


[At Darling Harbour, ダーリングハーバーにて、달링 하버에서]

私と妻はモール内を歩くことはせず、入口付近にあったフローズンヨーグルトの店でセルフサービスのフローズンヨーグルトを食べて息子とMが戻ってくるのを待った。


[At Darling Harbour, ダーリングハーバーにて、달링 하버에서]

ちなみにセルフサービスというのは曲者で、おいしそうなトッピングを自分でよそい、その重さをはかって支払うシステム。

私は看板にあった3.4ドルの100g当たりという部分を見過ごし1個当たりの値段と早とちりして、よそったため、300グラムを超え10数ドルの超豪華なフローズンヨーグルトを食べることになった。


[At Darling Harbour, ダーリングハーバーにて、달링 하버에서]

私はダーリングハーバーから鉄道でチャッツウッドへ帰ったが、この付近には水族館や中国庭園など観光施設が集中していて、ゆっくりとめぐる価値がありそうだ。


[At Darling Harbour, ダーリングハーバーにて、달링 하버에서]

ダーリングハーバー

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC