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2012年11月28日水曜日

「私の履歴書―日経新聞連載に準じて」(堀伸樹)

「私の履歴書―日経新聞連載に準じて」(N.Hori)

―1960年代から2000年代の通信事業の発展を中心として/通信事業は 国内中心の単純な電信電話事業からグローバルな情報流動産業へ発展―

(通信の時代区分)

・ 19世紀―1970年代:アナログ電話の国営・独占による普及時代、郵便・電信・電話(PTT)の統合経営

・ 1980年代:米国・英国・日本の通信の規制緩和・自由化・競争導入(郵便・電気通信の分離、民営化)、1984年AT&T分割

・ 1990年代:通信自由化は世界規模の動きに拡大、デジタル化の完了、携帯電話の爆発的成長、インターネットの出現

・ 2000年代:ブロードバンド時代の到来

・ 2010年代:高速ブロードバンド(固定・携帯)、すべてのヒト・モノ・家畜は超小型コンピューターを装備しインターネットでネットワーク化され計測・管理される時代、バーチャルとリアル世界の融合、インターネット企業(グーグル、ヤフー、アップルなど)やクラウド・コンピューティングは通信にいかなる影響を与えるか。携帯端末はどうなるか(通信+カメラ+インターネット接続+支払い+他の様々な機能)

① 私は、独ソ不可侵条約に基づきナチス・ドイツが9月1日にポーランドに電撃侵攻した世界大戦が始まった1939年(昭和14年)1月に大阪で生まれ、戦争が終了した1945年に兵庫県芦屋市立小学校に入学し、高度成長時代の1962年(昭和37年)に東京大学経済学部を卒業し、日本電信電話公社に入社し、2009年(平成21年)6月末に完全リタイアした(最後の6年間は1年契約の嘱託)。47年余のNTT生活のうち30年以上、通信の国内外の調査に従事できたことは大変幸いであった。調査部門の在職が長く、殆ど東京本社関連の勤務であった。1985年(昭和60年)に通信自由化/NTT民営化が行なわれたため、独占時代が23年、競争時代が24年とほぼ拮抗している。

② この間に、通信事業は基本電話サービスの全国的普及時代から需要の多様化・高度化、独占から競争への移行、インターネットの出現と携帯電話の爆発的増加、2000年代のブロードバンド時代の到来、2010年代のユビキタス・ブロードバンド時代へと発展しつつある。通信は、音声、データ、映像(ビデオ)にまたがる、個人、家庭や企業、政府・自治体、教育・医療機関などの様々な経済・社会主体の活動に不可欠なあらゆる情報伝送を担う事業であり、電力、エネルギー、交通、水道などとともに基礎的インフラを構成している。農業社会から工業社会、情報社会というこれまでの経済の発展段階から、今後、21世紀において高付加価値のサービス社会(民主党の主張「コンクリートからヒト」)という目標を実現するためには、全国規模ないしグローバルに情報流動を担う通信事業や電話会社は極めて重要な位置づけにあると言えよう。

③ 昭和一ケタ世代と異なり、われわれは戦争の記憶は殆どない。終戦直前の8月5日夜だったか、米軍機が阪神地方を襲い、当時阪急の芦屋駅近くに居たが、近くの親戚の家の防空壕に母と一緒に避難したかすかな記憶がある。父は東京に単身赴任していた。(兄弟はない)米軍機が高射砲で地上から狙われるのを避ける目的で電波妨害のため長い白いアルミ箔を落とし、それが電信柱からあちこちで垂れ下がっていた。その様子を逃げる途中で見た。50メートル先まで焼夷弾で焼けたが、借家はとりあえず無事であった。その頃に神戸上空で探照灯で照らされて日米の戦闘機が戦うのを見たように思う。終戦の日の8月15日の記憶はない。戦後1947年だったか、東京に引っ越すことになり、父母と一緒に特急「つばめ」(東京・大阪間:7時間)で上京したが、当時はトンネルで機関車の煙が客車内に漏れてきた。父は1948年8月に結核で亡くなり(40歳)、母が父が勤めた会社の事務員で採用されることとなり、小学校(高学年)・中学・高校・大学卒業 (1962年) まで、埼玉県(浦和市・熊谷市)で過ごした。小学生の高学年の頃はガキ大将で何人かの子分と一緒に夕方暗くなるまで遊びほうけていた。中学1年のときに、肺浸潤(肺結核の前段階)と診断され、1年間休学ののち復帰したため、中学は4年で卒業した。自宅で一人で一日安静を余儀なくされ、すっかり引っ込み思案の暗い性格となってしまった。中学2・3年と高校3年間の合計5年間は体育の授業は見学した。大学入学後初めて体育(ソフトボールを選択)を再開した。(病気後初めて全力疾走した100メートル走は15.8秒であった。平均より2秒以上遅いか?)

④ 中学頃から、国際問題に関心を持つようになり、朝日新聞の森恭三記者(当時ロンドン支局長)に憧れ、その署名記事をよく読んでいた―1950年(小学6年):朝鮮戦争(1953年休戦)、1951年:サンフランシスコ平和会議とGHQによる日本占領の終了、スエズ動乱(エジプトのスエズ運河国有化に対し、英仏が攻めたが失敗)、1953年:日本のTV放送の開始、1955年:日本の高度成長時代(1955―1968年)、1956年:ハンガリー動乱など(森記者は、神戸一中、三高、東大法科、1963年頃に東大・新聞研究所講師となる、私の卒業後)―この頃から、新聞記者となり海外特派員になることが一貫した夢となったが、健康に自信がなく、結局 諦めるしかなかった。ただし,「生涯一記者」、「生涯現役」が目標となって今日に及んでいる(南海の野村克也捕手が引退時に「生涯一捕手」と言ったことが頭にあった。本物の新聞記者(海外特派員)になる代わりに、NTTで通信担当の海外調査員となった次第である。大学3・4年の本郷時代に新聞研究所(現社会情報研究所)に合格し、籍を置いたが、結局一単位も取らず、新研は卒業しなかった(授業が午後3時からであり、記事の書き方の講義など面白くなかったため。当時熊谷からはるばる通学していた-1・2年の教養学科時代は東大三鷹療から駒場に通学) 経済学部では、ゼミは必修であり、国際経済論ゼミ(楊内克巳教授、3・4年生、各10名程度)を2年間取った(2年とも成績は優であったが、多分ゼミナリスト全員がそうだったであろう。出席さえしていれば) ―ヒルファーディング「金融資本論」や刊行されたばかりの楊内(やない)教授著の東大出版会・経済学講座「大戦間経済(第一次大戦と第二次大戦を巡る国際経済の動向)」などを議論した。サブゼミ(学生だけで読みあうもの)でケインズの「一般理論」(塩野谷訳)を読んだがチンプンカンプンであった。むしろ原文でやった方が良かったかもしれない。本郷に進学した1960年(昭和35年)は「60年安保」の年であり、6月15日に皇居前広場のデモで東大社会学科の女子学生が亡くなり、19日(日)に追悼デモがあった。追悼デモは本郷から粛々と皇居前に向けて繰り出したが、全くノンポリの私は途中でずらかった。これに伴いアイゼンハワー大統領は来日を取りやめ、岸信介は内閣総辞職した。その後、所得倍増計画を掲げる池田勇人内閣が成立し、高度成長時代が到来した。

⑤ 就職活動は、1961年の7月始めの期末試験後の就職説明会から始まった。(5日頃から?)民間企業の内定は取れず(就職活動のやり方がよくわからなかった)、熱い8月に拓殖大学で行なわれた上級職国家公務員試験(経済職、4日間)で合格90名中20番となり、9月上旬に厚生省、労働省、運輸省周りを始めた。(法律職や行政職の20番ならともかく、経済職の20番は大したことはない、試験問題は近代経済学中心であり、われわれは殆どマルクス経済学ベースの講義を受けていた)一方、半官半民の3公社(国鉄・電電・専売)に関心があり、国鉄は殆ど法学部卒であり、また煙草屋は気乗りしないことから、電電公社(本社採用―キャリアに相当)を受験した。9月1日に気がついたが、電電の申し込みは8月末となっていた。東京電気通信局秘書課に電話したら、いいよというので申し込み、初旬の日曜日に法政大学(飯田橋)だったかで筆記試験を受け、一日真面目に取り組んだ。(東大、京大、一橋大は8月に既に内定しており、内定者は筆記試験は適当に受けろということになっていたらしい)、その後原宿の総裁公邸で面接試験があり、すぐに合格通知が来たので、電電に入社することに決めた。(官庁周りは中止) 結局、通信事業や電電公社については殆ど何も知らずに入社することに。当時は、安定した大企業や官庁に就職して年功序列制度下で生涯働くのが当然の時代であった。1962年の業務系本社採用は35名程度、技術系は55名程度(建築系、データ通信本部向け数学系、通信研究所用研究開発要員を含む、博士は2名、修士は7名) 業務系は東大法学部:8名、以下:各3名―京大、一ツ橋大、東大経済、早大、慶大、国立金沢大(幹部候補生の本社採用のほかに地方採用があり、全国で約10の地方単位で採用が行なわれていた。本社採用は、民営化後1987年を最後に廃止された)

⑥ 日本の通信事業は、戦前のピークは108万電話加入者であったが、戦災のため戦後その約半分から出発した。民営で一貫して発展した米国を除いて、欧州諸国や日本では、郵便・電信・電話(PTT)の国営独占体制が20世紀初頭から取られてきた。その間に、労働集約的な郵便事業の赤字を資本・技術集約的な電気通信(電信・電話)事業の黒字で補填してきた。そこで、郵便と電気通信を分離して、特に電話事業の発展を促進し、かつ競争を導入する方向で改革が行なわれてきた。わが国では、1947年に郵電分離が行なわれ(逓信省から電気通信省が分離)、1952年(昭和27年)に事業運営部門を日本電信電話公社として独立させた。これにより電気通信事業で得た利益をすべて電気通信投資に充当することが可能となった。(1953年に電電公社から国際通信部門が国際電電として分離されたが(電電公社は国内通信部門として残る)、国際的に見てもこれは極めて例外的である。この事業の内外分離は1996年頃に廃止された)電電公社は旺盛な電話需要(加入・トラヒック)に対応するために、1953年に「第一次電信電話拡充5ヵ年計画」を開始しており、私が入社した1962年頃は、申し込むとすぐ電話を架設する「需給均衡体制」の確立と「全国ダイヤル自動化」の実現が2大目標となっていた。当時は、需要が供給を大幅に上回り、事務用電話は申し込んで1年で架設し、住宅用電話は申し込んで2年で架設するという優先設置基準が適用されていた。事務用のほうが住宅用より利用価値が高いと考えられていた。また、市外通話は、交換取扱者(殆ど女性)による手動交換で接続されていた。需給均衡体制と全国自動化は1970年代後半に達成されたが、同時に基本電話サービスの全国的普及(ユニバーサル・サービス)も実現された。1970年代までこの2大目標中心の経営であった

⑦ 電気通信における規制緩和・自由化・競争導入は、1960年代に米国から始まり、1980年代半ば頃から英国、日本に波及し、その後、1990年代にはその他の先進国や新興国に拡大していった。米国は、19世紀において電信や電話の発祥国であり、技術、サービス、料金、事業運営、顧客ケア、規制緩和などのあらゆる面で世界の電気通信事業をリードしてきたーあえていえば、「1984年AT&T分割」頃まで。独占時代の電話事業は、エンド・ツー・エンド(電話機から電話機まで)で電話会社が一貫してサービスを提供するのが、最も効率的であり、安価であり、信頼性が高いと考えられてきた。ところが、技術革新により、長距離市外分野、市内回線分野、端末(電話機など)、付加価値分野などにサービスを分離してそれぞれ競争に開放した方がユーザーのメリットが促進されるという考え方が主流となってきた。電気通信における独占から競争への移行は、「巨大な象」のような過去の国営独占事業者に対して「蟻」とも言える弱体の競争事業者が参入する形で始まるので、通信自由化は段階的に進められてきた。日本では、1985年(昭和60年)4月に自由化とNTT民営化が着手されたが、当初は地域通信、長距離通信、国際通信、ポケベル、携帯電話、衛星通信などの事業分野ごとに数社の競争事業者の参入を認めて手厚く保護することから始まり、1990年代には事業区分が撤廃され、また有限の資源である電波を利用する場合を除いて、免許数の制限も撤廃された。外資規制も撤廃された(NTTを除く)。競争導入後も巨大なNTTの経営形態については、再三問題となってきたが、1999年7月に持ち株会社の下にグループ運営を図るとともに公正競争のための必要な規制を課す形態が適用されている。自民党政権は、2010年にNTTグループの経営形態に関して見直す計画であったが、2009年8月の総選挙により民主党政権に変わり、現在総務省によりNTT問題の取扱いが検討されていると見られる。一つの焦点は、アクセス回線の光化(高速ブロードバンド)に関して、英国のBT並みにグループ内で分離して自社内外で公正なアクセスを提供するために特別に管理するかどうかであろう。NTT側は、その代わりに、アクセス以外の地域通信(NTT東西)、長距離通信(NTTコミュニケーションズ)、携帯電話(NTTドコモ)、情報処理(NTTデータ)などのグループ経営の規制をできるだけ緩和して欲しいと考えているであろう

⑧ 1962年に電電公社に入社したときの初任給は当初16,100円であったが、春闘によりその5月か6月に4月に遡って17,800円にベースアップが行なわれた。その後も4月に定期昇給で2%ぐらいの月給が増加したのち、春闘によるベースアップでその3倍ぐらいが増えた。春闘によるこの有難いベースアップはいつまで続いたか。高度成長時代は、労働者が一生懸命働くと、企業が拡大し、国の経済が発展するということが明らかな結構な時代であった。今では、中国、インドなどの新興国がこのような状況となっているだろう。国鉄・電電・専売の3公社は、公共企業体等労働関係法により、事業の公共性のため、労働3権は認められず、ストライキは禁止されていた。しかし、全電通は国鉄労働組合、動力者組合と並ぶ日本で最も強力な組合であり、ストライキと幹部の処分を繰り返していた。(NTTの社員数は、30年前頃33万人に達し、その後減少し、2009年に20万人を割っているが、単一企業(組合)としては、依然として日本有数であろう。日本郵政の次か?)入社後3年目の1965年の2月に自宅待機方式で半日ストがあり、全国の電電組合員は参加を求められた。当時、入社後3年弱の訓練期間(現場訓練、本社訓練、学園訓練)を終えて電話局の係長に任命された直後であったが、全電通に加盟して半日ストに参加した。その後処分が行なわれ、現場機関2年間勤務のところ3年間係長に据え置かれた。同期の多くはストに参加して同じような処分を受けた。1985年のNTT民営化により、NTT社員も争議権を認められるようになった。(同じ民営化でも、事業自体が好調であった電電と累積赤字が数十兆円に達し、労使関係で地獄を見ていた国鉄とでは雲泥の差があったといえよう。NTTは現在でも基本的に旧電電と変わらないが、分割民営化されたJR各社は顧客サービス中心に経営は抜本的に改革されている)

⑨ 1968年2月の異動で、新設された(財団法人)電気通信総合研究所(電総研)に出向した.電総研は、郵政省所管で電電公社中心の出向者により、情報社会論などの社会科学的研究・分析を行なうために設立された。主たるスポンサーは電電公社であった。当時、未来論や情報社会論が提起され、自然科学による通信研究所(電電内部の研究機関―米国のAT&Tのベル電話研究所に次ぐ世界有数の通信事業者の研究機関。欧州諸国では通信機器メーカーの研究機関が中心で通信事業者は大した研究機関を持たない)に対して社会科学からアプローチすることを目指すものであった。ただし、電電・郵政・通信機器メーカー・主要銀行などの出向者中心(殆ど学士)のため、専門的な研究能力は殆どなく、発注する電電公社などに対して、二次情報を整理して報告することが主となっていたと考えられる。ただ、米国などの外国調査体制が次第に充実していったといえよう。前述したように、1980年代までは、米国は電気通信産業の発展では圧倒的であった。独占時代では、AT&Tは世界の同業者の中で仰ぎ見るような長兄であり、はるかに下の次兄の地位を英国(現在のBT)、フランス(FT)、ドイツ(DT)やNTT(当時はいずれも政府機関)が競っていたといえようか。電総研は1985年のNTT民営化に伴い、3分の2は1985年6月にNTT子会社として株式会社・情報通信総合研究所(情総研)として分離され(現在はNTT持ち株子会社)、残りは財団法人として郵政省所管として残り、その後他の郵政省関連の研究調査機関と合併したと推定される。電総研とその後情総研に3回出向・勤務したが、最初の出向(1968年・69年)では、公益事業料金・運賃(電力、ガス、国鉄、私鉄、水道、電気通信)について理論と実際について整理し、電気通信料金について提言をまとめたー独占時代であるが、コスト・ベース、顧客の選択と経営効率化を促進するシステムと構造とする。当時、単なる電信電話事業という位置づけから情報化社会における情報流動を担う極めて重要な事業であるという認識が高まって、面白くなってきたと考えられる

⑩ 1969年8月に初めて海外旅行に出かけた。朝日新聞の旅行会社で欧州ツアー(25日間、37万円、19日の年休を利用)に貯金をはたいて参加した。電電本体勤務であったら不可能であったが、ちょうど出向中で幸いであった。スタッフを含めて80名以上の大部隊で、しかも老若の女性が3分の2を占めていた。予定の2倍の希望者となったそうだ。男性は学校の先生など8月に休める人や中小企業など外国を見て来いと派遣されたものなど、大企業関係は殆どいなかった。一般の海外旅行は解禁されて数年経ったくらいであった(海外に持ち出すドルの制限が緩和された)まず、飛行機でドイツのフランクフルトに着き、チャーターしたバス2台で古城で有名なアルトハイデルべルグからスイスを経てイタリアのローマへ。それから北上してフランス南部を横断して、ニース、スペインのマドリード。そこでバスを降り、鉄道でパリへ、次いでロンドンに飛んで帰国というルートであった。見るもの聞くもの、何でも新鮮で毎日が楽しい限りであった。スイスのアルプスのマッタホルン、フィレンツェのウフィッツィ美術館、ピサの斜塔、アルルの高架の水道、バルセロナのサグラ―ダ・ファミリア教会、パリの凱旋門など。後半はバスの長距離の移動で疲れてしまった。午後8時ごろようやくホテルに着いて、80人がレストランでコースの料理を1時間かけて食べ、翌朝は早朝に出発するなど。海外特派員志望のため、海外旅行は長年の夢であった。電電は国内通信のため外国出張は思いもよらなかったので。その経験があったからか、1973年にイタリア・ジェノアで開催された運輸・通信国際会議に初めて出張することができた。全然記憶がないが。ツアーの行く先で必ず土産物屋に連れて行かれたが、女性たちがよくお金を使うことにビックリしたことを覚えている。男たちは金欠で何も買えないのに。

⑪ 日本の通信自由化は、1970年頃から電話とコンピューターとの融合が開始され、特に大企業ユーザーから国際競争力を維持するために公衆通信は電電の独占でもいいが、付加価値通信・高度通信については競争を導入すべきだという議論が起こってきた。政府の第二次臨時調査会は1982年に通信自由化とNTT民営化(NTTの経営形態についても検討が必要)を提言した。これに基づき、政府は1984年12月に電電改革3法(電気通信事業法、NTT法、関連法の改革法)を成立させ、1985年(昭和60年)4月に実施した。以下、今日までの電気通信改革の経緯を整理しておく

・ 1985年4月―通信市場を独占時代から百年ぶりに競争時代に移行した。国営独占事業者のNTTは民営化された ・ 当時の規制―事業区分ごとの免許付与(地域通信、長距離通信、国際通信、ポケベル、携帯電話、衛星通信)、 設備保有(一種事業)と設備非保有(再販売ベースー二種事業)を峻別する、免許数を制限する

・ 1990年頃にはすべての事業区分で競争が出現した

・ 1994年―携帯電話でデジタル免許により2社競争体制から3,4社競争体制に移行し、端末の自由化を実施した。(端末メーカーや流通業者も参入可能となった。米国では、1980年代初めの当初から端末は自由化されていた)これにより携帯電話市場の競争は大きく促進された。

・ NTT以外の外資規制も米国や英国の圧力(日本進出を目論む企業や政府)の下で段階的に撤廃されてきた

・ 1990年代後半に事業区分は廃止されるとともに、有限の資源である無線周波数を利用する場合を除いて、免許数の制限も撤廃された(国内通信と国際通信の区分も撤廃された。NTTも1997年頃に国際進出を認められた)

・ NTTの経営問題については、1999年7月に持ち株会社の下にグループ経営として再編成が実施された(持ち株とNTT東西は、特殊会社として引き続いて規制され、その他の子会社は事業法の主として支配的事業者規制だけが適用されるー特殊会社の規制は役員の任免、事業計画や重要な資産の処分の認可、政府保有義務、外資規制など)

・ 設備保有と非保有の区別は2000年代前半に撤廃された(従来は設備保有事業者は自社設備でしか事業を拡大できなかった。米国では、1980年代初めから設備の保有の有無でなく、市場シェアや料金設定能力に基づく支配的事業者規制が中心となっている)

・ 現在、日本の通信市場はNTTグループ,KDDIグループ(KDDとDDIが合併)、ソフトバンク・グループの3大グループによる寡占体制となっている(携帯電話市場のシェアでは、NTT:5割、KDDI:3割、ソフトバンク:2割となっている。ただし、固定電話市場ではNTTが圧倒的である)

・ NTTの経営形態問題については、自民党政権は2010年に見直す計画であったが、2009年8月に行なわれた総選挙の結果民主党政権となり、総務省で取り扱いについて検討していると見られるー最近問題となっているのは、高速ブロードバンド時代の到来から、アクセス回線の光化であり、英国のBTと同様なグループ内で分離し、内外で公正アクセスを実現するために管理を強化するかどうかであり、さらに光アクセスのユニバーサル・サービスの義務付けをどうするかであろう

⑪ 1975年2月―1977年1月まで、殆ど唯一の地方勤務として北海道の札幌で2年間過ごした。東京から800キロ北ではたして生きていけるかと不安であったが、非常に快適であった。仕事はネットワーク管理で全国的組織の一環として北海道の通信ネットワーク管理を担当する20人強の部隊(技術系と業務系からなり、技術系の方が多い)であった。災害時や通信網の障害に際し、全国組織と一緒に電話トラヒック(通話の流れ)をコントロールすることを目的としていた。北海道は元来、江戸時代以来本州などからの移民によって発展してきた歴史から、雑居的であり、人々はおおらかかつ開放的であり、言葉もほぼ標準語ですぐ溶け込むことができた。北の稚内でオホーツク海を眺め、東の釧路から根室に行って、12月に寒々とした街路をうろついたことが思い出される。北海道特産のジンギスカン、ルイベ、新鮮なカニ、ジャガイモなど堪能した。札幌市内のアパートから近くの藻岩山(500メートルぐらい)に何回か登ったりした。楽しかった。アパート前の雪かきもいい思い出であった。ゴルフの所属する部門のコンペも5月から10月までであった。東京の感覚からすれば、真夏は7月から8月初旬ぐらいまで、冬は11月後半から翌3月までという感じであった。今はどうなっているか。金曜日に午後休暇を取り、午後12時半の特急で札幌を立ち、青函連絡船経由で翌朝6時に上野駅につき自宅に帰り、翌日の日曜日午後に上野発で月曜朝に札幌に着き、そのまま勤務したことが2年間で6回ぐらいあった。往復で約9000円、結構な時代であった。

⑫  1982年1月8日の米国の新聞(ニューヨーク・タイムズやウオール・ストリート・ジャーナルなど)は、一面でAT&Tと司法省が反トラスト訴訟の決着でAT&T分割で和解したことを大々的に発表した。電話事業はエンド・エンドで電話会社が独占的に提供するのがベストであるという、ユニバーサル・サービスに関するAT&Tの従来の主張を信じてきた世界の同業者にとって、まさに晴天の霹靂であった。AT&Tは、良質な基本電話サービスを全国規模で手頃な料金で提供するために独占を維持すべきであると1900年代からしばしば強調してきた。われわれもこの主張に何の疑問を感じなかった。(AT&Tは分割当時、米国の電話加入数の8割に電話サービスを提供し、特に州際電話及び国際電話サービスを独占していた)   司法省は、AT&T反トラスト訴訟において、AT&Tは独占分野の黒字で競争分野(長距離通信や機器製造など)の赤字を補填することにより、公正競争を阻害しているとして両者を分離することを求めてきた。AT&Tは、規制下の公衆電気通信事業だけでなく、発展を開始したコンピューター事業などに進出するためには、将来性の乏しい独占分野(地域通信)を分離し、急速に発展すると見られる競争分野(長距離通信やコンピュータ)に特化したいと考えた。そこで、両者は、AT&Tから22のベル電話会社(BOC―州内通信)を分割して、以後資本関係を持たないことで合意した。その1ヵ月後の2月はじめに始めて米国に出張し、ニューヨーク、ワシントンで関係機関にニューヨーク事務所の優秀なスタッフとともにヒアリングを行なった。所管のワシントン連邦地方裁判所は利害関係者のコメントを求めて和解内容を一部修正し、8月に「1982年修正同意審決」として分割条件を確定し、1984年1月始めにAT&T分割が実施された。22のBOCは7つの地域持ち株会社に再編成されて発足し、新生AT&Tは100万人(当時の連邦政府に匹敵する)いた従業員の3分の1になって、長距離通信と機器製造(ベル研を含む)という競争分野だけとなり、公衆電気通信という事業分野上の制限は取り払われた。AT&T分割により、地域通信市場(独占的)と長距離通信市場(競争)の構造分離が行なわれた。米国の電気通信市場は、その後BOCの合併が行なわれ(ほぼ地域独占のため合併について独占禁止法上の問題は少ない)、2000年代にAT&Tや米国のいわば第二電電のMCIはBOCに合併され、今や地域・長距離通信は統合され、現在はAT&T、ベライゾン、クエストなどの旧BOCの地域独占体制に戻っている。電話会社とケーブル会社の電気通信・ケーブル市場を巡る競争は弱体であると見られる。電話会社は財務上はるかに強力であるが、ケーブル会社はコンテンツ市場に強く、電話会社は対抗困難であろう。日本におけるNTT問題でしばしば分割が競争事業者から主張されるのは、晴天の霹靂のAT&T分割が実際に行なわれたことに由来している。AT&T分割が米国の電気通信産業の発展にいかなる影響を与えたかは、評価の分かれるところであろう。当時、分割が行われてしまった以上、とやかく言っても始まらないという意見があった。日本で1999年に行なわれたNTTの組織再編成は、日本において地域通信(県内通信)と長距離通信(県間通信)の両方の市場で競争が進展したにも関わらず、AT&T分割をいわば15年遅れで踏襲するものであったという見方がある。ともあれ、1984年AT%T分割は世界の電気通信の独占時代の終わりを象徴する出来事であったー今や携帯電話(NTTドコモ)は固定電話(NTT東西/NTTコム)を大きく抜いている

⑬ 1985年9月20日に米国に出張し、2週間後に帰国したが、行く前に1ドルを245円で買って持っていったが、帰国後残ったドルを売ったら1ドル:215円と手数料を差し引くと10日余りで約10%の円高となっていた。1年後には1ドルは170円ぐらいとなり、2年後には約120円と円の価値は2倍となった。これに伴い、円ベースのGDPはさほど変わらないのに、ドル・ベースでは1人当りGDPを含めて2倍となり、日本は一挙に世界で最も豊かな国に躍り出た。それから日本人のおごりが生じ、バブル時代を迎え、1990年代にバブルの崩壊後、「失われた十年(ロスト・ディケード)」を生じて今日に及んでいるようだ。バブルの頃は、「もう米国の経営から学ぶことはない」というような馬鹿な経営者が現れた。実は、米国出張中の9月22日に5カ国蔵相会合がニューヨークのプラザ・ホテルで開催され、円高誘導が「プラザ合意」として決定された。プラザ・ホテルは、セントラル・パークの南に面する荘重な欧州スタイルの巨大なホテルであり、その後も出張に際して五番街の交差点から時々展望している。最近、中国政府が人民元の切り上げに極めて慎重なのは、プラザ合意の教訓を十分念頭においているからであろう。中国は毎年700万人の新規学卒の雇用を創出しなければならず、さもないと格差の拡大と相まって大きな社会的混乱を生ずる恐れがあり、人民元の切り上げには慎重にならざるを得ないからだ。当時の米国出張の目的は、世界で最も発展している米国の移動体通信の政策、規制、市場動向やプレイヤーの戦略を分析して、日本の動向やNTTの戦略展開の参考に資することであった。米国の通信規制機関の連邦通信委員会(FCC)は、1981年にセルラー電話(現在の携帯電話)に関する規制を決定しており、エリアごとに2社競争体制とし、端末は自由化している。すなわち、移動体通信事業者でなくても技術基準に適合すれば、端末の製造・販売が可能である。これによってサービスや料金の競争が促進される(宮沢喜一・元首相は日本がおかしくなったのはいつからかと聞かれて、プラザ合意あたりではなかったかと答えていた。プラザ合意による急速な円高が日本人を傲慢にしダメにしたのであろうか)

⑭ 1989年(平成元年)は世界的に見て冷戦体制の終焉をもたらした大事件が頻出した年であったー昭和から平成へ、グローバリゼーション時代の幕開け

・ 昭和天皇の崩御―1989年1月7日(土)の朝8時頃だったかJRの盛岡駅の構内をぶらぶらしていた。そのとき、昭和天皇が亡くなったニュースが流れた。天皇は12月末頃から危篤状態で既に新聞社などは織り込み済みであった。私は、前日夜の東京駅発の深夜長距離バスで朝5時頃に盛岡駅に到着し、NTT同期のH氏と近くのホテルで朝食を共にしつつ、四方山の話をして分かれた後であった。その日は、鈍行を乗りついで仙台まで行き、新幹線で帰京した。鈍行を利用しても時間はかかるが、余り運賃は変わらない。平成の時代が始まった

・ 天安門事件―6月4日の朝2時から3時頃に自宅で一杯軽くやりながら、仕事をしつつ、テレビを見ていた。この3点セットはいつもの習慣となっていた。学生時代から早寝早起きであり、眠くなれば夕方の8時や9時には寝て、夜遅く目が覚めれば起きて仕事+TV+一杯という次第であった。テレビでは、北京の天安門広場で学生と軍隊が対峙し、パンパンと銃声が聞こえたのではなかったか。今では殆ど思い出せない。5月頃より学生のデモが活発化し、次第に大胆かつ大規模になっていったように思われる。国家主席が学生と親しく話すニュースが流れた。(学生に甘い主席はすぐに罷免された)ソ連の改革を1985年頃から進めてきたゴルバチョフ総書記が5月に中国を訪問したことも学生たちの開放感を促進したかもしれない。当時の中国の実力者の登章平は共産党独裁を維持し中国社会の崩壊を免れるために我慢の限度に達し、学生デモに対して人民解放軍(国家でなく共産党に属する)による武力を発動した。何百人か数千人規模の犠牲者が出たか定かでない。当時何度も戦車の前で手を広げて止めようとする若者の姿が放映されたが、のちに処刑されたという報道があった。天安門事件は、その後も中国の民主化を阻害した一大事件として、欧米やわが国では位置づけられている。現在でも事件の規模や詳細は明らかでないと見られる(天安門事件は中国では今でも禁句である)

・ 東ドイツの人々がハンガリー経由で西ドイツや欧州諸国に亡命(8月ごろ)―夏休みに東ドイツの家族などが許可を得て同じ社会主義国のハンガリーに自動車などで移動し、ハンガリーの西ドイツ大使館に押し寄せたり、オーストリア国境に集まるようになっていった。ハンガリーは社会主義でありながら、かなり自由化を進めていたと見られる。東ドイツは、高齢のホーネッカー総書記(70歳ぐらい)の下で硬直的な社会主義政策を展開していた。東ベルリンや東ドイツの人々は、禁止されているテレビやラジオの盗聴などで繁栄する西ドイツや西ベルリンの様子を知るようになっていたと見られる。恐らく1960年代頃までは、東ドイツは西ドイツに対して経済的に遅れていなかったであろうが、その後は中央集権的計画経済を基調とする東ドイツに対して自由主義的な市場経済を展開する西ドイツは欲望と競争下で発展し、その差が拡大していったと考えられる。結局、ハンガリーは西ドイツ政府などと協議し、ハンガリーとオーストリア国境を開放し、集まっていた東ドイツの人々はオーストリア経由で西ドイツや他の欧州諸国に亡命していったと推定される。当時、このような状況はTVや新聞で毎日のように報道・放映されていた

・ 11月9日のベルリンの壁の崩壊―その後、東ドイツでも自由を求めてデモが各地で行なわれるようになり、ライプチッヒで十万人規模が集まった一大デモが開催されるまでになったと記憶する。ホーネッカー政権も軍隊を動員しながら、人民に発砲する命令を発するまでに至らなかったと考えられる。ゴルバチョフ・ソ連総書記がもはやソ連は東欧諸国が社会主義圏を離脱しようとしてももはやソ連軍を派遣することはない旨を明らかにしていた。(ソ連は、1956年のハンガリー動乱や1968年の「プラハ(チェコの首都)の春」などの社会主義圏からの離脱の動きについてソ連軍を差し向けて阻止してきた経緯がある)ホーネッカーは総書記を50歳代のエゴン・グレンツに譲り、事態の収拾を任せた。11月9日にベルリンの壁の撤廃を求めて西ベルリンとの境界のブランデンブルグ門に人々が集まり始めた。その動きは日本でもリアルタイムで報道されていた。夜何時頃だったか、東ドイツ政府の混乱(特に壁の守備隊に対する命令の伝達が明確でなかった)から壁の取り壊し作業が始まってしまった。弱体化した政府では対処仕切れなかったと推定される。西ベルリン側でも呼応する動きがあったと見られる。ベルリンの東西を分断する壁は東ドイツから西ドイツに亡命する動きに耐えかねて1961年に東ドイツ政府が一晩で構築し、東西ドイツの境界でも構築された。その1年後の1990年10月始めに東西ドイツは統合され、東ドイツの電気通信事業は西ドイツによって吸収された

・ 東欧諸国の社会主義圏離脱は続き、12月下旬にはルーマニアに波及し、チャウシェスク大統領夫妻が射殺されたールーマニアでは、チャウシェスク政権が比較的堅実な運営を遂げていたと見られてきたが、地方で大規模デモが生じ、結局、軍隊が分裂し、大統領夫妻がヘリコプターで宮殿から逃げようとした時に捕らえられ、反対派の軍によって射殺された。殺された大統領夫妻の写真は日本でも何回も放映された。多分、それにより大統領派の動きを諦めるよう強くけん制したものであろう。

・ 私は、実は6月4日の天安門事件の直後に心臓のカテーテル検査で入院し、その結果、狭心症にかかっていることがわかり(3本の冠状動脈のうち1本が詰まっている)、10日頃に詰まった冠状動脈を「風船(バルーン)」で広げる、一種の内科的手術を受けて退院し、20日頃に復帰した。(現在は、詰まった部分を網状の筒で広げて維持するため、「ステント」と呼ばれている)4月頃から朝通勤の際に胸全体が痛くなり、次第に耐えがたくなっていった。勤務先にたどりついてデスクで座って仕事をする上で問題はなかった。精密検査するまで心臓が胸痛の原因とはわからなかった。何かの筋肉痛かと思っていた(最近、久しぶりにカテーテル検査を受けたが、今のところは再発していないようだ)

・ 歴史的事件をどこでどう知ったかと聞かれて、最もよく挙げられるのは、ケネディ大統領の暗殺事件がある。ケネディは1963年11月23日(米国は前日の22日)の朝7時頃だったか、母と食事中であったが、NHKのニュースで突然告げられてビックリして思わず立ち上がった。NHKはその際、衛星経由の実況放送の試験放送をする予定であったが急遽ケネディ暗殺事件に切り替えたものである。1962年4月に電電入社後、現場訓練を終えて、学園訓練中で休みのため自宅(自由が丘に間借り)に戻っていた。ジョン・F・ケネディ(43歳で当選)は、1960年大統領選挙において、ニクソン共和党副大統領(大統領はアイゼンハワー)と争っていたが、「国が自分に何をしてくれるかを問うのでなく、自分が国に何ができるかを問え」とか「たいまつは新しい世代に引き継がれた」、「恐怖から交渉するのでなく、交渉することを恐れるな(ソ連を念頭に)」,「味方も敵も変わりなく」などと警句を連発し、私はすっかり気に入っていた。初めて候補者どうしでテレビ討論を行い、ケネディの方が評価が高かったが、僅差で大統領に当選した。夫妻でテキサス州のダラスで車で遊説中に近くのビルから射殺されたが、ジャクリーヌ夫人は「オー・ノー」と思わずつぶやいた。その後出張でダラスに行く機会があったが(電話会社の年次全国大会があった)、暗殺された近くに展示館があり、見に行ったが殆ど印象はない。ジョンソン副大統領の暗殺関与説もあったが、犯人は不明である。理想主義的なケネディに対する期待は高かったが、非常に残念であった。弟のロバートが司法長官を勤め、兄暗殺後のジョンソン政権でも司法長官であったが、その後夫妻で来日した際に早稲田大学で講演し、非常に温厚・誠実な態度で極めて好評であった。ロバート・ケネディも1968年大統領選挙に際して暗殺された。残った末弟のエドワードは民主党上院議員となり、大統領選出馬も取りざたされたが、民主党リベラル派の重鎮として2000年大統領選挙ではオバマ現大統領を押し、昨年亡くなった。

・ 2001年9月11日の「セプテンバー・イレブン」の同時多発テロは、夜9時過ぎ(米国東海岸では朝8時過ぎ)に帰宅直後にテレビにスイッチを入れ、偶然2機目がニューヨーク・マンハッタンのワールド・トレード・センター・ビルに衝突するのをリアルタイムで目撃した。もう世界のどこでも日本を含めて安全は保障されないことが広く認識された瞬間であった。自爆した犯人たち(多くはサウジアラビア国籍)がなぜこのような行為に及んだかは解明されたか?起こったのは悪名高いブッシュ共和党政権であるが、準備期間に数年かかっており、これはクリントン民主党政権時代(1993年ー2000年)に該当する

⑮ 私は1980年頃から通信の外国調査に従事してきた。調査対象では、80年代は殆ど唯一競争が進展した米国中心であり、英国もサッチャー政権の下で通信自由化が着手された。90年代は、米国と欧州規模で自由化が進展しつつある欧州が半々であった。2000年代については、むしろ発展を開始したアジアや新興国に関する調査のウエイトが増加している ・ 欧米調査は、日本より規制緩和・自由化が進展するか、同等であり、日本の通信政策に影響を及ぼす可能性があるので、政策・規制が中心となっている

・ 一方、アジアや新興国は、政策や規制ではむしろ日本の方が進展しており、むしろ日本企業やNTTにとってビジネス・チャンスとなる可能性があり、進出するための市場や戦略分析を行なうのが目的である

・ 調査方法(主として英語)―文献・資料調査(総合新聞や専門雑誌などで常時ウオッチング)、市販の調査報告書の購入(数十万円)、コンサルタント会社に調査委託(数百万円)、現地出張調査(1回:1―2週間、100万円以内) ・ クライアントの要望に沿って、これらを適切に組み合わせて調査を行ない、次の調査の受注につなげていく

・ NTTグループは、日本企業の海外ネットワークのサポート(NTTコム、NTTデータ)やNTTドコモの海外展開などで合計1万人近くを海外に展開している(その多くは現地採用であり、出向者は少ないと推定される) ・ NTTは2000年頃に海外企業に投資したが、少数出資にとどまり、テレコム・バブルの崩壊により失敗し、数兆円の資産整理を余儀なくされた。最近NTTグループは焦点を絞った戦略的投資を展開し始めている(NTTの海外収入推定は2010年度:40億ドル、2011年度:80億ドル)

・ 日本の経済と社会は、2020年代に向けて急速に構造変化していくので、それに応じて内外の調査体制を整備する必要があるー日本は世界においていかなる位置づけとなるか(マクロ需要環境)、情報通信市場はいかなる変貌を遂げるか(セミマクロ需要・供給環境及び市場別需要・供給ミクロ環境)、NTTグループは何を期待されるか(NTTグループ戦略) 以上の中で外国調査をどう位置づけるかー持ち株会社、事業会社などの役割分担をどうするか ⑯ 外国出張の思い出

・ 1980年代後半から2000年代半ばまで50回以上の海外出張(出張ごとに1週間から2週間)を欧米中心に行なった。これらのほかに2回のJICA経済専門家派遣(1981年:タイ、3ヶ月、2002年:マレーシア、2週間ごとに4回、合計2ヶ月)を含めると、合計2年間ぐらい外国で過ごしたような勘定となる

・ 外国出張の目的―日本の通信政策(総務省所管)やNTTグループの経営戦略の参考にするために、とりわけ欧米諸国の政策、規制、技術、サービス、料金、市場動向、主要なプレーヤーの事業経営などを具体的に分析する(訪問先―政策官庁、規制機関、通信事業者、コンサルタント、学識経験者など)

・ 出張による訪問回数―10回以上:ニューヨーク、ワシントン、5回以上:ボストン、、ロンドン、ボン(西ドイツの旧首都)、香港、ソウル、テジョン(韓国)、バンコック(タイ)、クアラルンプル(マレーシア)、2回以上:サンフランシスコ、アトランタ、パリ、デュッセルドルフ、シンガポール、1回:北京、ブダペスト(ハンガリー)など

・ 規制機関や政府は比較的オープンで受け入れてくれるが、通信事業者は必ずしも受け入れてくれないーその理由はNTTが潜在的に競争相手となる可能性があったり、ビジネス上時間の無駄と考えるからであろう

・ 日本側は外国の通信事情(政策、規制、市場動向、プレイヤーの戦略など)に強い関心があるが、外国の方は、技術的関心(日本がかなり進んでいる)や競争やビジネス機会がある場合はともかく、日本の一般的動向に対して関心を持たない。相手に対するこちらのインタビューが終わり、日本側の事情について聞かれることを想定して日本に関する英文資料(NTTの戦略を含む)を用意しても、相手側は日本の事情について関心がないことが多い。

・ 例えば、2004年始めに英国の規制機関は電気通信専門の「オフテル(電気通信庁)」から通信・放送統合の規制機関の「オフコム」に移行したが、その後に訪問した際に電気通信特有の事前規制から殆ど一般競争法制に基づく事後規制中心の議論となり、ビックリした。従来の電気通信固有の規制用語の使用が極めて少なくなり、独占や競争、不公正取引など、他の競争産業や市場と同様な規制の論議が電気通信についても適用されるようになったことに気がついた。伝送規制とコンテンツ規制が通信と放送についてほぼ同様に適用されている。これに比べると、日本はまだまだ電気通信固有の規制が色濃く残っているようだ。米国と英国は元来自由市場経済を基調としており、特定の産業を推進したり、斜陽化する産業政策は取らないが、日本やドイツ、フランスは後発資本主義国として米国・英国に追いつくために産業政策を取ってきた歴史的経緯がある

 (閑話休題)

・ いつだったか、米国の首都・ワシントンで日曜日の朝8時頃に散歩に出かけてワシントン・モニュメント(初代のワシントン大統領を記念する169メートルのタワーでどこからでも見える)を目指して歩いていったら、同じ方向を歩く手をつないだ男同士や女同士のカップルが次第にドンドン増えてきた。ビックリして途中でホテルに引き返したが、テレビを見たら、ゲイの全国大会がワシントンで開催されたことを知った。テニスの元ワールドチャンピオンのナブラチロワがカップルの女性とひな壇に並んでいた。午後ワシントン自慢の地下鉄に乗ったら、ゲイのカップルで一杯となっていた。ちなみに泊まったのは1972年不正選挙でニクソン大統領失脚の原因となったウオーターゲート・ホテルであった。 ・ 2003年11月であったか、英国スコットランドの古都エジンバラに旧知のエジンバラ大学・フランスマン教授(東大先端研で在日中に日本の通信事情についてインタビューされたことがあった)に英国や欧州の電気通信政策に関してインタビューを行なった。その後に教授はクルマでエジンバラの名所を30分ほどまわってくれたが、国富論のアダム・スミス(1723―1790年、グラスゴー大学教授)の墓と米国で1876年に電話の特許を取得したアレグザンダー・グラハム・ベル(1847―1922年)の生まれた家があった。グラハム・ベルは米国に渡り電話を発明したようだ。エジンバラは、古城を中心とする観光スポットが豊富であった

・ 東西ドイツは1990年10月に統合されたが、その前後に休みの日に西ベルリンに飛んで東ベルリンに市内観光したことがあった。1988年だったか、半日市内観光バスで東ベルリンに行ったが、「チェック・ポイント・チャーリー」という東西の境界エリアで30分かけてバスや乗客の徹底的な検査ののち、市内に移動したが、繁華な西ベルリンと比べて東ベルリンは人通りも少なく、寒々とし、全く空気が違っていた。その後統合後の2003年にベルリンで欧州の電気通信コンファレンスが開催された際に再び東ベルリンを歩いたが、活気に乏しく、印象は大して変わらなかった。現在でも旧東ドイツは西ドイツに比較して失業率が高く、東ドイツの人々はいわば二級市民の位置づけで不満が残っていると報道されている。

・ 1990年5月にシンガポール・香港・北京とアジアに初めて出張した。香港から北京に飛ぶ時に北京空港が黄砂のため閉鎖となり、夜遅く大連に飛んだ。中心部の米系ホテルに宿泊し、翌朝大連空港にバスで移動したが、街中はまさに4,50年前の植民地時代そのままであった。北京は、1989年6月の天安門事件の直後でホテルの窓から見るとあちこちで建設中のビル工事が中止されていた。朝7時ごろにはホテル前の広場は通勤の自転車の海であった。あらゆる方向に走っていた。午後に繁華街の王府井(ワンフーチン)を歩いたが、中国人だらけで怖くなり、慌ててホテルに戻った。また、外国人向けのお土産屋の友誼商店で買ったが、女性の店員の愛想の悪さにビックリした。店員同士のおしゃべりの合間に客の顔も見ないで商品を包んでくれた。20年後の今日の中国の目覚しい発展は思いもよらなかった。

・ 2002年にマレーシア(現在の人口:約2600万人)に国際協力事業団(JICA)により経済専門家として合計2ヶ月派遣された。(国際システム・コンサルティング会社・日本工営が中心でNTTはサポート)農村インタネット・センターの設計のためであり、私は、報告書において、ブロードバンド時代における情報通信政策のあり方に関して厚かましく提言部分(英文)を執筆した。首都クアラルンプルの街を歩くと、マレー系(マレー語、イスラム教、人口の6割を占める)、中国系(中国語、儒教・仏教、25%)、インド系(ヒンズー語、ヒンズー教、9%)が別々のグループで人種が交じり合わないことに驚いた。多民族国家の状況は、同質的な日本(日本人、日本語、仏教中心)から来ると非常に面白かった。ハイヤーの中国人運転手(両方とも下手な英語で会話)は、自宅では中国語を話し(マレーシアの共通語はマレー語)、マレー系は豚肉を食べず、インド系は牛肉を食べないが、自分たちは何でも食うと言っていた。隣のタイでは、中国系は本来のタイ民族とよく同化しており、人種間のトラブルは少ないようだ。

・ 80年代末にフランスの郵便電気通信省(現フランス・テレコム)に新電話サービス開発に関してインタビューした際、朝10頃でまずワイン、ビール、ジュース、コーヒーなどからどれにするか聞かれて驚いたことがある。今はどうなっているか。

⑰ 徒然(つれづれ)なるままに(アトランダムに)

・ 1985年の通信自由化後25年経ったが、NTTグループは日本の通信市場の7割を占めているが(収入ベース)、KDDIやソフトバンクなどの競争事業者がNTTの電話加入者(固定電話:3000万以上、携帯電話:5000万以上)とNTTの全国バックボーン・ネットワークと接続して初めて事業展開が可能となっていることを考慮すると、NTTは日本の通信事業の9割の責任を担っているということができるであろう。

・ したがって、NTTグループは日本のあらゆる情報流動(個人、家庭、企業、政府・自治体などによる音声・データ・映像、インターネット接続を含めて)を全国規模で提供・運営する、日本で最も重要な企業グループの1つである ・ 日本はこれから2020年代以降に向けて、人口減少・高齢化の進展、経済構造の改革、地域社会の再編成、アジア諸国や新興国との共存・共栄・一体化、環境・資源問題への対応などの諸問題に直面しており、NTTグループは日本の殆どの情報流動を担う使命・責任・役割からこれらの諸問題の解決に最大限の貢献を求められている

・ 通信事業は、それ自体省資源・省エネルギーであり、ユーザーとの緊密な協力を通じて、あらゆる産業や経済主体の業務の効率化や環境促進に貢献できる可能性を持っている

・ そのためには、われわれが通信事業を通じて何をできるか、長期的視点に立って、マクロ(日本と世界)・セミマクロ(通信産業レベル)・ミクロ(市場別レベル)の環境分析(需要・供給構造)に基づいて、通信事業の発展(技術、市場、サービス、事業運営、競争など)を考慮しながら、経営戦略を組織的に展開する必要がある

・ 最近、国際競争力のある通信事業者でなければならないということが言われるようになっている。本来ドメスティックな通信サービスにおける国際競争力とは何か。技術、サービス、料金、事業運営の効率性、顧客ケアなどで、外国の同業者(過去の独占電話会社で自由化後も圧倒的な支配的事業者である)に対して勝っているか、または少なくとも負けていないか。NTTグループは、例えばAT&T、ベライゾン、BT、DT、FT、中国テレコム、中国モバイル、韓国テレコム(KT)などと比較してどうか。各国の通信キャリアは自国がそれぞれ直面する諸問題の解決に役立っているか。

・ 私は,以上の基本的考え方のもとで、2009年6月まで通信の外国調査に30年間従事してきたが、大変幸せであった。NTTグループの戦略展開において(特に1985年通信自由化後)少しでもお役に立てれば幸いであったと考えている。これまで長年にわたって頂いたご厚誼、大変有難うございました。厚くお礼申し上げます。

・ 勤務地でも、日比谷、六本木、青山1丁目、五反田、日本橋人形町などと都心部の各地を移動したことも楽しい思い出である。調査のための資料読みや原稿書きに疲れると、よく周辺地域をうろつきまわった。六本木などは90年代に食事と気晴らしで何百回も徘徊したであろう。最近は六本木ヒルズなど一変したようだが。

・ 洋書売り場―八重洲ブックセンター(東京駅八重洲南口)、丸善(日本橋本店、東京駅丸の内北口)、紀伊国屋書店(新宿本店、新宿西口)、神田神保町の内山書店(中国書専門)、アジア書店(中国以外のアジア、国別コーナーあり、内山ビル) なお、紀伊国屋書店はシンガポール、バンコック、クアラルンプル、ニューヨークなどに支店がある

・ 高校生の頃であったか、無限とは何かでふと思いついてゾッとしたことがあった。自分が存在するためにはそれを入れる空間、それも自分より大きな立体的な空間が必要であり、さらにそれを入れるより大きな空間が必要である。それを無限大まで考えていくと、タテ×ヨコ×高さという空間の3次元と時間との4次元で宇宙大の空間が必要になる。どれも無限であるが、そんなことは想像できない。自分や世界、地球はどうして存在しているかがわからなくなってくる。スティーブン・ホーキング(1942年生まれ、「ホーキング、宇宙を語るービッグバンからブラックホールへ」という優れた啓蒙書がある)という英国の著名な神のごとき?物理学者がこのなぞを解くという話であったがどうなったのか。ホーキング博士は眼鏡をかけ、やせて小柄であり、しかも全身の筋肉が麻痺していく難病にかかっており、十数年前に既に目の瞬きでコンピューターを操作していた。何十億年か前に「ビッグバン」が起きて、宇宙が全くの無から生じ、現在拡大中だという説がある。そのためにはそれを入れる空間が必要ではないのか。さらにそれを入れる空間が必要で?さらに?よくわからない。時々これに思い至るとゾッとする

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